タックルする
「おとーとくぅーんっ♪」
「――うわぁっ!?」
背後からやけに楽しそうな声で呼ばれたのと、腰の辺りに強烈な衝撃を感じたのとはほぼ同時の出来事だった。一体誰が何をしてそうなったのか、予想するのは至極容易い。
「……まったく、あなたという人は……!」
ずれた眼鏡を直しながら、振り向いたヒューバートの目に映ったのは思った通りの人物だった。銀と赤のコントラストが特徴的な短い髪に、よく動く猫のような瞳。年頃だというのに女性らしさの欠片もない作業着姿も相変わらずで、彼女ならいきなりのタックルもさもありなんと頷けた。しかし、それとこれとはまた別である。
「何故普通に声をかけられないんですか。そもそも全身でぶつかってくる必要性なんてどこにもないでしょう? 僕があなた諸共倒れていたらどうするつもりだったんです!」
反論を許さぬ勢いでまくし立て、眼光鋭く問い詰める。しかし当の相手は全く怯んでいない風に、唇を尖らせてこう言った。
「えー、大丈夫だよぉ。弟くんそれくらいでコケるほどヤワじゃないでしょ?」
「それは……まあ、確かにそうですが……」
「だったらぜーんぜん問題ないじゃん? ねーっ」
ぐっ、と親指を立ててみせるパスカルには、「ねーっ、じゃありません!」と怒鳴るのが精一杯だった。それすらも堪えた様子はなく、まあまあいいじゃんと流される。
「はぁ……。ところで今日は一体どうしたんです? こちらに来るとは聞いていませんでしたが」
「うん、連絡するの忘れてたからねー」
あっけらかんと言う彼女になんと返事をしたものか。考えつつ溜息混じりにまた眼鏡を弄り、改めてなんの用かと尋ねてみる。彼女がフェンデルから遙々ユ・リベルテまで、ただ物見遊山に来たとは考えにくい。
「んっとねー、今日は教官のお使い。この手紙を大統領に渡せばいいんだってさ」
「ちょ、ちょっとパスカルさん! こんな道端でそんなもの取り出さないで下さい!!」
腰のポーチから引っ張り出した書状を、無造作にひらひらさせるのを見て慌てて止める。教官から大統領宛ということはつまり立派な公文書であり、どんな国家機密が書かれているかわからない。それをいつ誰に奪われるかも知れない往来で見せるなど、危機管理がなっていないにもほどがあった。
「誰も取りゃしないって、面白いことなんて書いてないんだからさー」
「そういう問題じゃありませんっ!!」
ついでに言えば、彼女愛用の工具達と一緒に乱雑に突っ込まれていたらしいそれは、だいぶくしゃくしゃになっていた。辛うじて怪しげな染みなどは見受けられないのが救いだろうか。これは一度僕が預かって、皺を伸ばしてから大統領にお渡しすべきだろう。そう心に決めたヒューバートは、取り上げた書状をひとまず自身の懐にしまった。このまま彼女に持たせておくと、ろくなことにならないような気がしたので。
「……ところで、パスカルさん」
差し当たってもうひとつ、気になっていたことを聞くことにする。大統領にお会いするならば、これはどうしても確認しておかねばならない。
「なぁにー?」
「お風呂には、入ったんですか?」
「入ったよー。ザヴェートを出るときにちゃーんと!」
「……ザヴェート、ですか……」
道理でなんとなく臭うはずだ。ザヴェートからこのユ・リベルテまで、船と徒歩のみでの旅程は決して短くない。加えてストラタの気候を考え合わせれば。
「とりあえず、まずは風呂ですね」
「えっ、ま、待ってよなんで?」
「なんでも何もありません。さあ早く宿に行きますよ」
「そんな、待ってってばねぇ弟くーん!?」
「弟くんじゃなくてヒューバートです」
「あ、そうだったごめん……ってそうじゃなくてー!」
じたばたと藻掻くパスカルに構わず、その首根っこを掴んでずるずると引きずる。そんな二人の姿を道行く人々が興味深げに眺めていたことに、彼らは結局最後まで気づかなかった。
- 2011/05/14