旅枕の半夜にて

 かりかりとペンを走らせる音だけが、深夜の静寂の中に響いていた。さすがレザレノの擁するホテル、一般客室といえどそこらの安宿とは違い、防音の行き届いた室内には外の喧噪など届かない。
 その静けさを破るように、かたん、と不意に物音がした。ごく小さな音だったけれど、しんと静まり返った室内では十分に目立つものだった。
「しいな」
 背後のベッドを振り向いて、その上にいる人影に呼びかける。食事も風呂もとうに済ませ、寝間着姿で膝を抱えている彼女は、どうやらうとうとと居眠りしかけていたらしい。先ほどの物音の正体は、体勢を崩しかけて咄嗟についた手が、サイドテーブルの端を掠めた音、であるようだ。
「もうこんな時間だぜ。眠いんなら先に寝な」
「――ぁ、あぁ……。大丈夫、まだ起きてる……」
 重そうな瞼を擦り擦り、言ってふわあ、と欠伸をひとつ。どこをどう見ても眠たそうだし、我慢したところで限界が来るのは時間の問題。昨日も一昨日もその前も、このところずっと野宿続きで疲れているのだ。折角の柔らかいベッドで眠れる機会、休める時に休んでおくのが得策というもの。
「無理すんなって」
 立ち上がって机を離れ、しいなのいるベッドサイドへと歩み寄る。そのまま肩に手をかけて、そっと半身をベッドに倒した。既に相当眠いのだろう、彼女は逆らわずされるままに横たわり、布団をかけてやっても暴れるでもない。辛うじてまだ目は開けているが、その瞳はもうとろんとして甘い微睡みに融けかかっている。
「ほら、眠いんだろ? 寝込み襲ったりしないから、安心してさっさと寝ちまえよ」
「……でも、ゼロスは……まだ、起きて、る……」
「俺さまはまだアレ書いてるからいーの。おまえは寝なさい」
「……わかった。じゃあ、寝る……」
「ん。そーしな」
 普段のしゃきしゃきした口調はどこへやら、すっかり間延びした受け答えは声まで甘い。ぽんぽんと二度肩を叩いて、ゆっくりと瞼が閉じられるのを見届けてから机へと戻った。
「ねぇ、ゼロス……」
 椅子の背に手をかけ引こうとした途端、背中から甘やかな声がかかる。振り向けば横たわったままのしいなが、顔だけを僅かにこちらに向けていた。
「なーに?」
「あんたは……寝なくて、いいの……?」
 さっき答えたような気もする問い。でも多分、眠くて理解できなかったというわけではない。寝なくても体は大丈夫なのかと、親切にも心配してくれているのだろう。でも今はそんなことより自分の方が、今にも眠りに落ちそうなのに。
「だいじょーぶ。これ書き上げたらちゃんと寝るから」
「そっか……」
 わかったとこれまた眠そうに答えて、その目が再び閉じられる。苦笑して背を向け椅子に座って、転がしておいたペンを取り上げた。
「ぜろすぅ……」
 もう一度。今度は完全に眠る一歩手前の、やや舌っ足らずな掠れ声で。
「んー?」
 振り向かずに返事だけを返したら、
「おやすみ……」
 半ば消え入りそうな声が届いた。
 そしてそれに続くのは、すやすやと安らかな寝息だけ。

「……おやすみ、しいな」
 ちらり、首だけを向けて視線をやった。
 穏やかな表情で眠る彼女の、口元が小さく微笑んでいた。

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