First Anniversary
壁にかけられた暦の数字を、穴が開くほどにじっと見つめる。丸く印がつけられているその場所は、紛う方なき今日の日付だ。このところずっと指折り数えてきた、特になんということもない平凡な日。
「……忘れてるのかな」
いや、そもそも気にしていないのかもしれない。その日起きたことそのものがどうでもよかったのだとは思わないが、日付に関してはさほど重視していなかったのかも。まあ思い当たる理由がなくもない、何せこっちは初めてだったが、向こうはそうではないのだから。
「浮かれてたのはあたしだけ、か」
呟いた声は笑えるくらい悄然として、今更にああ期待していたんだなぁと自覚した。気にしないふりをしていたけれど、予約されるのを待っていた。御丁寧に予定も空けて、忙しい仕事の合間に休暇を取って。何かと気障な奴のことだから、今日になって突然現れる気なのかもしれないと、早起きして柄にもなく念入りに身繕いしてみたりもした。それでも時は空しく過ぎて、もうお茶の時間にもなろうかとしているのが現状。
「ま、しょうがないよね」
覚えていても、何かしたくても、できないほど忙殺されているのかも。だったら責めるわけにもいかないのだし、今日はもうここでのんびりして――。
「なーにがしょーがないのー?」
「……ふぇっ!?」
不意に背後から響いた声に、驚いて至極情けない叫びを上げてしまった。慌てて口に手を当てても時既に遅し、振り向いたそこにはにやにやと楽しげに笑う男の姿。
「な、何しに来たのさ! 来る時は連絡よこせっていつも」
「はいはいはい、忘れてましたごめんなさーい。急に体が空いたもんだから連絡するヒマがなかったの、許して?」
こちらの台詞を遮って、軽い口調で言いながら。当たり前のように抱きついてくるのを、拒めない自分が少し悔しい。逞しい腕にぎゅっと抱かれても、朝から募った憂鬱や苛立ちが消えてなくなるわけではないのに。
「ねーしいな、今日は時間ある?」
「ちょっとなら、なくもない……けど」
「お、マジで!? じゃあ俺さまとデートできちゃったりするー?」
「……ちょっとだけならね。あたしだって忙しいんだからね!」
本当は今日と明日は休みをとった。なのにそんなことを言ったのは、今日が何の日かなんてすっかり忘れた風のその態度が、どうにも腹立たしかったから。
「だーいじょーぶ、しいなが忙しいのは俺さまもよーっくわかってるから。それじゃちょっとこっち来て、ねっ」
いつもより刺々しい対応に気づいているのかいないのか、ぐいぐいと肩を抱かれて押し出されて。まあつきあってやるかと従えば、庭先に停められたレアバードの前へと導かれた。
「はい、それじゃ乗ってねー」
「乗るって……あんた一体どこに行く気だい? しかも一台ってことは二人乗りかい」
「前で抱っこされるのがいい? 後ろで俺さまにひっつくのがいい? 好きな方選んでいいぜ、さあどっち?」
「話聞く気ないだろ、あんた……。まあどっちでもいいけど、じゃあ前で」
りょーかーい、と楽しげに答える声を後ろに、さっさとレアバードに乗り込み操縦桿に手を載せた。別にどちらでもよかったけれど、前を選んだのはなんとなく素直にしがみつく気になれなかったからだ。相変わらず可愛くないなと溜息をつきかけ、慌てて吐息に紛らせた。すぐ後ろに乗り込んできたゼロスに、見られていませんようにと密かに祈る。
「それじゃしゅっぱーつ!」
エンジンが唸りを上げて間もなく、ふわり浮き上がった機体がスピードに乗った。操縦桿を握る手は形だけで、重ねるように握った一回り大きい手が巧みに操作をこなしていく。
「行き先はどこなのさ?」
「それはひみつー。まぁそのうちわかるって」
方角からしてメルトキオに連れて行かれるのではないらしい。この方向はアルタミラだろうかと、思ううち風に潮の香りが混ざり始める。随分と傾き始めた太陽と競争するように、徐々に高度が下がりやがて着陸態勢を取った。
「ほらしいな、こっちこっちー!」
呼ばれるままについていった先は、本来まだ営業していないはずのカジノ区画。普段夜にしか訪れないその場所は、まだ残照が色濃く残る今の時間にはなんだか見慣れぬ印象だった。
「こんなとこに連れ出して何しようってのさ、まだカジノも劇場も閉まってるってのに」
「今日はカジノで遊ぶんじゃないからいーの。ほらこっち来て、はやくー」
「はいはい、わかったよ」
手招きされたのは区画の端、カジノ前の広場の手摺りの間際。手摺りを背にして立つゼロスの、目の前に向き合う位置に来た刹那。
ぱぁん、と鮮やかな光が弾けた。
「……え?」
緩い風に靡く紅髪の、その遙か上に咲いた花。どうして、と思う間に次々と、色とりどりの花が空に咲いては消えていく。
「え、え、これって」
それが何かは知っている。このリゾートの夏の目玉になっているショーでやるのと同じもの、でも今はまだその時期には早すぎる。なのにどうして、それが今?
「どーよ、気に入ってくれた? ホントはもーちょっと暗くなってからの方が綺麗なんだけどな」
悪戯っぽく笑うゼロスに、あたしはただ両の目を忙しなく瞬くしかできない。なにがなんだかわからない、だってこれは一体どういうことなのか。
「リーガルのおっさんに頼み込んで、ワガママ聞いてもらったのよ。今日は特別な日だからな」
「特別、って」
鸚鵡返しに問う声が震えた。そんなまさかと思う反面、胸の内にじわりと嬉しさが湧く。
「何よ、忘れるとでも思ってんの? おまえがやっと俺さまのものになった大事な日を」
彼なりに照れてでもいるのだろうか、少し不格好な笑顔が歪む。言いたいことは沢山あるのに、ひとつも言葉にならなかった。何も言えないでいるうちに、伸びてきた腕に捕らわれる。
「来年もまた、こうして一緒に過ごしてくれる?」
広い背中にぎゅっと縋って、考える前に頷いていた。
嬉しくて泣くなんて恥ずかしいけど、止め方は知らないのだからどうにもできない。
- 2010/06/24