For whom do ?
仕事仕事の日々の合間に、ぽっかりと空いた数日の休み。このところずっと会えていなかった寂しさも手伝って、遠くメルトキオまでやってきた、のに。
「いってきまーす……」
「いってらっしゃい。気をつけて行きなよ」
肩を落としひらひらと手を振る後ろ姿に、なるべく明るい声を投げる。どことなくやつれた感のある背中が角を過ぎるまで見送って、それからぱたんと扉を閉じた。何にともなく溜息を吐き、あまり上手くもない作り笑いを削ぎ落とす。
「まさか三日連続で会議とはねぇ……」
それも国王陛下が臨席する、絶対に外せない重要案件。全くもって、間の悪いことこの上ない。
「藤林さま、今日はどうなさいますか」
主からの言い置きかはたまた熟練の従者としての察しの良さか。背後に控えるセバスチャンは、貴族でもないあたしに対しても、何故だか賓客扱いで接してくれる。こんな風に恭しくされるとどうにも背中がこそばゆくなるが、三日もいるとそれにも少しは慣れてきた。
「そうだね、今日は……ちょっと、部屋で休ませてもらおうかな」
「畏まりました。何か御用がありましたら、いつでもお呼び下さいませ」
「ああ、そうさせてもらうよ。ありがとう」
きっちりと背筋を正して言う彼に、礼を述べてから階段を上る。行く先は二階のゼロスの私室、本来なら客間のひとつを宛がわれるべきなのだろうに、この家の主であるゼロス自身の意向によって、そこを使うようにと指示されていた。
敷かれた厚い絨毯によって、労せずとも足音の立たない廊下を進み扉を開く。その隙間にするりと滑り込んで、そのまま手を放したけれども手入れの行き届いた扉は軋む音さえしなかった。室内にはこれまたふかふかの絨毯が敷き詰められていて、己の歩く音はほとんどしない。元より防音の整った部屋だから、当然外からの喧噪が届くこともなく。
(……なんだか、耳が痛いね)
いつも賑やかなあいつがいないと、この部屋はひどく静かすぎる。きっと一人で過ごすには広すぎることも、身に馴染まない調度品の数々に囲まれて落ち着かない気分になることも、そう思う理由のひとつなのだろうが。どちらにしても、結果的には。
「ちょっと……寂しい、かな」
会いたかったから、ここまで来た。予定を合わせていたわけではないから、忙しいのは予想していた。でもいつもの書類仕事なら、代われないまでも手伝うくらいはできたのに。たとえ触れ合うことはできずとも、手を動かしながらの会話は交わせたはず。しかしその当人がいないのでは、顔を見ることさえできないじゃないか。
(今日も帰りは遅いんだろうね……)
昨日も一昨日もそうだった。会議は神経を使う内容らしく、帰ってきた彼は随分と疲れ果てていて。遅い夕食だけは共にして、入浴を済ますなり倒れ込むようにベッドに入った。構えなくて悪いと謝る相手を、責めることなどできなかった。
(だってあたしの為に、無理させるなんてできないし)
それでもちゃんと抱き締めて、包んでくれた腕の温かさを今もしっかりと覚えている。優しく撫でてくれた手も、額に落とされたおやすみのキスも、全部。でもだからこそ、思い出す度に切なくて。胸の一番奥のなにかが、きゅんと痛みを訴えた。
「……ゼロス」
小さく低く名前を呼んだら、余計に痛みが強くなった。思わずきゅっと我が身を抱き締め、床に膝をつき目の前のベッドに身を寄せる。今朝はまだシーツの交換されていないマットレスに、顔を埋めると仄かに香水の残り香がした。
(これ……ゼロスの、匂いだ)
あれだけ疲れ切っていても忘れない辺り、既に習慣になっているのだろう。昨夜眠る前にも嗅いだ香りは、彼と共寝する折にはいつも身近に感じるものだ。そして大抵、その前後には当然のように付随する行為を伴っていて――。
「――もう、あの馬鹿……!」
嗅覚というのは、五感の中でも一番本能を刺激する感覚だという。だからきっと、こんな気持ちになるのはそのせいだ。決して人肌恋しいからだとか、随分触れられていなかったからとか、ましてや欲求不満だからだ、なんてことは。そんなことは断じて、ないんだから。
(でも、だけど)
折角ここまで来たんだから、そう、たまには。
(わがまま通してみたって、いいよね?)
「おかえりなさいませ」
「おう、ただいま帰ったぜー」
待ちかねた相手の帰宅時間は、今日もやっぱり遅かった。とはいえ昨日より少しだけ早いのは、それでも努力した証だろうか。
「おかえり、ゼロス」
内心の緊張を悟られぬよう、務めて平静を装い笑顔を作る。どうやら上手くいったらしく、彼は疲れた表情を和らげて笑った。
「おーしいな、ただいまー。やっぱなんかいいな、おまえにおかえりって言われんの」
「そりゃどうも。食事は?」
「まだ。だってしいなと一緒に食べたいもん、俺さま」
甘えた調子で言いながら、抱きついてくるのをよしよしと迎える。まるで大きな子供をあやしているような、こんなやりとりはよくある光景。日頃は愛おしく思いはすれど、胸が痛んだりはしないのに。
(また、この香り)
鼻をくすぐる薔薇の香り。僅かに混じる汗の匂いが、より一層『その時』を思い出させた。ほらやっぱり、だからこれはこの香りのせいなのだ。
「ほらほら、離れてさっさと食事にするよ。ただでさえ時間には遅れてるんだからサ」
ぽんと背を叩いて促して。
珍しくはあい、と素直に従う男について、ダイニングへと歩みを進めた。
食事を済ませて部屋に戻って、用意されたお茶を一人飲む。一緒にこの部屋に来たゼロスは、今は入浴中なのでこの場にはいない。あたしは先に入ったから、後は帰りを待って寝るだけ。そう、寝るだけ、なのだけど。
(そろそろ、かな)
ことりとカップをテーブルに置く。
なんだか胸がどきどきする、でももうやると決めたのだから。よし、と心密かに意気込んで、帯の結び目に手を掛けた。するりと解いて上着も脱ぐ。どちらもきちんと畳んで隅に置き、代わりにしまっておいた袋を取り出す。その中のものを両手で取り上げ、目の前に吊す形で広げてみた。
「……う」
やっぱりちょっと、恥ずかしい。今ならまだ後戻りもできる、だけどあたしだってたまにはこれくらい――そうきっと、あいつだって悪い気はしないはず、だから。
「あたしだって、やる時はやるんだよ?」
自分に言い聞かせるように、宣言して『それ』を脇に置いた。深呼吸してから、インナーを一気に脱ぎ捨てる。続いてタイツと下着も脱いで、考える間を空けずに『それ』を着る。
「これで、いい……ん、だよね?」
前後は間違っていないはず。薄い上に面積も少ないから、着た感じ非常に心許ない気はするけれど。下なんて左右は紐で結んでそれきりだから、解けたら一巻の終わりなのだろうし。いやいや、これは元よりそういう意図でできている……の、かもしれない。
「確かにちょっと、可愛いけどさ」
薄桃色のレース地に、胸元と裾とをフリルがぐるりと囲むデザイン。以前あいつが買ってきて、着て欲しいと言われたけれど絶対着るかと撥ねつけた品。名前はなんと言ったっけ、確かベビードール、とか言ってたような。
(こういう目的で使うものだってのは、なんとなく想像してたけど)
ちゃんとわかってくれるだろうか。
自分で持ってきたくらいだから、衣装そのものは多分嫌いじゃないのだろう。でもこうしてそれを着たあたしを、可愛いと思ってくれるだろうか。
きっと今日だって疲れている、そんなことちゃんとわかってるけど。
(あたしだって、あんたに触りたいんだ)
バスルームへ続く扉の向こう、人の気配と物音が届く。
俯き加減の顔を上げて、さあ、それが開くのをじっと待とうか。
- 2010/04/24