恋しい日には
何故そうしようと思ったのか、なんて。
これといった理由はなかったんだ。
敵意や殺気には敏感でも、そうでない生活音は集中すると耳に入らなくなる。そんな気質は飲み込んでいたから、控えめなノックに返事がなかったことは別段気にも止めなかった。勝手知ったる何とやら、遠慮なく扉を開けて中へと入る。当然そこにいるだろうと、目をやった執務机にはしかし、目当ての姿は見出せなかった。
「……ゼロス?」
よく休憩と称して転がっているソファの上にも、派手な紅髪の影すら見えない。出かけていないことは階下の従者に確認したから、そうなればもう探すべき場所はひとつしかなかった。
相変わらず書類だらけの机の向こう、広い部屋の一番奥まった場所に据えられている天蓋つきの豪奢なベッド。今はきっちりと下ろされているその幕を、ひらりと捲って中を覗く。過たず、そこに探していた相手を見つけた。別になんということもないそれだけで、ふっと口元を緩めてしまったのは多分、それが珍しい光景だったからだ。
「あーあ、布団もかけないで」
この男が無防備に目を閉じて眠っている姿なんて、そうそう見られるものではない。きっと疲れていたんだろう、上着と手袋を取っただけの格好で、鮮やかな髪をシーツの上にばさりと散らして。何か掛けてやろうと思って身を乗り出して、ふと下を見たら――前触れもなく、心臓が跳ねた。
こいつの顔なんて見慣れている。だらしなくにやけていなければ、それなりに目を引く美貌の持ち主だということも勿論ちゃんと知っている。ラフな格好だってよく見ているし、だから今更、この程度の距離でどきどきする理由なんてないはず、なのに。
(なん、で)
長い睫が薄く落としている影だとか、ほんの少し開いた柔らかそうな唇の形、とか。ゆっくりと上下する、以外と逞しい胸板の厚さとか、が。どうしようもなく視線を捉えて、まるで釘付けられたように離せない。まさかあたしが、この男に。見とれるだなんて、そんなこと、は。
「寝てる……よね」
ベッドの上、眠る男の体の脇に手をついた。急に掛けられた体重に、きしりと小さく軋む音。一瞬息を詰めたけれど、それは眠りを破るほどのものではなかったようだ。
「一回だけ……」
少しだけ、もう少しだけ。どうかまだ目を覚まさないで。
祈りながら身を屈め、近づく距離に胸を焦がした。穏やかな寝息を肌に感じて、勝手に体温が上がっていく。今度は少し大きくぎしりと、聞こえた音が合図のように。瞬きひとつして目を閉じて、吸い寄せられるようにそっと、触れた。
(……な、なにやってんだろ、あたし)
ふと我に返ってみると、急に恥ずかしさが襲ってきた。無意識に唇をぐいと拭って、半ば混乱しつつ身を起こす。とにかく離れようとしたその時に、
「しい……な……?」
ぱちりと、蒼い瞳が開いた。
「――!」
まだ少し、焦点の合わないぼやけた目。それでもこちらを見られたら、途端に焦りが出てきてしまって。用意していたわけでもないから、弁解の言葉も思いつかない。
「えっと、あ……これはその、ちがっ」
しどろもどろになりながら、必死に頭を巡らせて。どうにか説明しなければと思ったけれど、でもそれもすぐ無用のものになってしまった。
「きゃ……っ!?」
ぐい、と腕を掴まれ引っ張られて。元々不安定な体勢だったから、あっさりと反転させられてしまった。今はベッドに横たわっているのはあたしの方、そのまま当然のように覆い被さられ、あ、と声を漏らすが早いか塞がれた。
「ん……、ふぁ」
頬を両の手で挟み込むように固定されては、逃れようにも無理な話。ちょうど指先の触れた肩口に縋り、潜り込んできた舌の熱さにただ耐える。息継ぐ暇も与えられず、繰り返される度響く水音が、堪らなく恥ずかしくて目を閉じた。
「んん……っ」
どれだけの時間、そうしていたのか。長かったような気もするけれど、実際はそうでもなかったかもしれない。どちらにしろ定かにはわからない、そんな余裕はなかったから。やっと解放されたその瞬間、二人を繋ぐ透明な糸が、きらり光って虚空に消えた。それが何かを悟るより早く、笑みを含んだ視線に出逢う。
「どしたの、イキナリ」
それはもっともな質問だ。多分こんなの、いつものあたしなら絶対にしないことだから。だけど。
「理由……なきゃ、キスしちゃ駄目なのかい……?」
素直な気持ちを乗せた言葉は、情けなく震えてしまったけど。代わりのように手を伸ばし、意外そうな――ほんの少し驚いた様子のその頬に、そっと指先で触れようと、して。
「!」
突然ぎゅっと握られた手が、勢いのままシーツに縫い止められる。どうしたのかと見上げた先には、にやりと笑う楽しげな顔。
「全然」
ああこれはキスだけじゃ済まないと、気づいても後悔はしなかったから。
たまには、好きにされてあげる。
提供ありがとうございました!
- 2010/04/24