さよならのあとに

「それじゃまたな、おまえもこっちに来る時はうちに寄れよ?」
「言われなくてもわかってるよ。すぐ暗くなるからね、気をつけて帰りなよ」
 お馴染みのそんなやりとりをした後で、レアバードの上の男に手を振った。だらしなく緩んだ笑顔で手を振り返し、それから操縦桿を握るのを見守る。すぐに動き始めたエンジンが眩しい光を放つや否や、機体がふわりと浮かび上がった。そして間もなく、上昇した機影は見る間に遠く小さくなる。
 早く帰れとは言わないまでも、平然とした顔で見送った。もうちょっとだけ、まだ帰りたくないと、毎度子供染みた駄々を捏ねる相手に対して、なんてあっさりした反応かと思う。けれどそれ以外にどうしたらいいのかなんてわからなくて、暮れかかる空を眺めて溜息を吐いた。

 これといった理由もなく、日が沈むまで空を見ていた。それからやっと家に戻って、文机に向かい正座する。
「さてと、早いとここれを片づけちまわないとね」
 積み上げられた書類たちは、先ほど遠い王都へと帰った男の持ち込んだもの。急ぎの仕事を頼む為と言いつつ、たっぷり一日遊んでいったことを考えれば、彼も息抜きがしたかったのだろうか。
「あれ? こんな所に……」
 ふと目をやった畳の上、今座っている座布団の傍ら。書類にざっと目を通す間、ずっと彼が座って待っていた場所。そこに一筋残っていたのは、長くつややかな夕陽の色。この部屋の主たるあたしのではなく、この里の者でもあり得ないそれは、間違いなく彼が忘れていった置き土産だ。指先でついと摘んで拾い上げ、掌に載せて暫し眺める。吹けば飛ぶほどの僅かな痕跡、でもそれを見ていると、何故だか胸が締めつけられた。
「……ゼロス」
 小さく名前を呟くと、心のざわめきが強くなる。凪いでいたはずの静かな海に、押し寄せる細波が少しだけ怖い。手の中のものをきゅっと握ると、知らず頬の辺りが熱を帯びた。持ち主から離れて久しいそれは、伝えるべき温度など持っているわけもなかったのに。
 いつもいつも、あたしはここで待っているだけ。だからそう、帰って行く姿を見送る立場。そうして後に残るのは、火の消えたような侘しさだ。見慣れた日常に混ざり込んだ、非日常の影をつい探しては落胆する。悔しいから認めたくなんてないけれど、でも強がってばかりはいられなかった。静まり返った夜に一人、見栄を張るべき相手もなしには、張り詰めた虚勢も脆く崩れて溶けていく。
 帰らなければいけないことくらい、始めからちゃんとわかっている。なのにそれが寂しいなんて、どうして本人に言えるだろう。きっとこの気持ちはお互いさまで、あたしだけが感じているものじゃないはずだ。だけど今だけはどうしても、冷え切った世界に一人きり、取り残されたように心細い。寂しくて切なくて胸が苦しくて、思いは千々に乱れていく。今すぐに会いたい触れたい声が聞きたい、側にいてぎゅっと抱き締めてもう放さないで。

 絶対に言えないわがままは、ぐるぐると渦巻いてやがて涙になった。一頻り泣いたその後で、強引に涙を拭って頬を叩く。気合いを入れ直して顔を上げたら、立ち上がり障子際へと歩を進めた。
「……ありがとね、ここにいてくれて」
 握った手を開いて差し出して、中のものをそっと風に流した。一度だけきらり、輝いた夕陽が闇に紛れて消えていく。大丈夫だよ、あたしはちゃんと待てるから。胸の内だけでそう告げて、そして笑って障子を閉めた。

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