初春を君と

 いつの間に眠ってしまったのだろう。
 ぼんやりと数度瞬きをして、目を開けば見覚えのある白木の天井が目に入る。無意識に動かした指先が、糊の利いたシーツの上を滑って、そのさらりとした感触を伝えた。
「あー……。もう朝、か」
 やっと名前を覚えた障子とかいう紙の窓越しに、柔らかな光が差し込んでいる。その明るさから察すると、幸いまだ寝過ごしたというほどの時間ではないようだ。
 寝乱れた髪をかき上げながら、昨夜の記憶に思いを馳せる。メルトキオの面倒なニューイヤーパーティから逃れたいのと、暮れの忙しさから暫く会えずにいた恋人に会いたいのとで、大晦日の日が傾くと同時に飛び出した。日没をとうに過ぎてからの到着にも、彼女は苦笑しただけで、嫌な顔もせず迎えてくれた。それから確か、彼女の祖父と酒宴になって、そして。
「……もしかして俺さま、年明ける前に寝ちゃった?」
 いくら記憶を探っても、カウントダウンをした覚えはない。以前聞いた話では、ミズホでは年の変わり目には鐘を鳴らすのだという。だがそれらしきものも聞かなかったから、相当早くに眠ってしまったわけなのか。
「うわー、もったいねーことしちまった……」
 ぼやきつつ体を起こして布団を出る。体温で心地良くぬくもっていた布団の外は、身の引き締まる冴えた寒さだ。
「随分と遅い起床だな」
 さむー、と呟いたその背後、不意に現れた気配がひとつ。だがそれは見知った相手のものだったから、特に驚くには至らない。
「なんでおろち君がいんのよ、ココはしいなんちでしょーが」
「頭領と御隠居に年始の挨拶に来ただけだ。ついでにおまえを起こしてくるように頼まれたんでな」
「……しいながそー言ったわけ?」
「いいや、御隠居だ。しいなは準備に忙しくてな、まだそれどころではないだろう」
 一体何の準備なのかは、聞いても教えてもらえなかった。代わりに着替えを渡されて、とりあえず風呂にでも入れと追い出される。確かに昨夜は着替えもせずに眠ってしまったようだから、新年の朝にさっぱりするのは望む所ではあるけれど。
「あいつに言われんのはなんっか、ムカつく……」
 とっくに勝敗は決していても、そこはやっぱり恋敵。
 我が物顔に指図されては、面白かろうはずはなかった。

「帯結ぶのって、結構難しいモンなのねー……」
 もう何度も泊まっているだけに、この家の風呂場には慣れたもの。しかし渡された着替えはミズホ伝統のキモノだったので、これはなかなか御しがたかった。結局は様子を見に来たおろち君に着付けてもらう羽目になり、しっかり鼻で笑われた。くそう、後で覚えてろよ。
「何事も慣れじゃよ。これも毎日着ておれば、自然とできるようになるものじゃ」
「そりゃまー、そーだな」
 昨夜差し向かいで酒盛りをした、その同じ部屋のこたつにて。これもまた昨夜同様、イガグリのじーさんと向かい合わせに正座で座り、湯気の立つ茶を飲みつつしいなを待つ。
「そろそろ支度のできる頃じゃな」
「支度? そーいやおろち君も言ってたな、準備に忙しいとかなんとか。一体何の支度なんだ?」
「ほほ、それは見てのお楽しみじゃよ」
 ふーん、と気のない返事をしておいて、ずず、と湯飲みの茶を啜る。今し方目の前でじーさんが入れてくれたこのお茶は、しいなのそれよりなんだかちょっと美味い気がする。これも年の功って奴なんだろうか。
「おじいちゃん、お待たせ」
 廊下を摺り足で来る足音の後、待ちかねた声が耳に届く。振り向けばすっと襖が開き、そこには当然しいながいた……の、だが。
「…………ぅ、わ」
 無意識に漏れた呟きは、本人には届かなかっただろう。届けばきっと、なんて声出すんだと怒られていたに違いないから。でもそれは、決していつもの揶揄や皮肉などではない。
 鮮やかな緋色を基調にした生地に、花鳥の散らされた華やかな柄。ひらひらと長く垂れた袖と裾は、下の方だけが艶のある黒に変わっていて、淡くぼかされたグラデーションの妙が美しい。普段は薄桃色の一色の帯も、今は金糸銀糸で文様を描いたきらびやかなものが締められていた。襟元の詰まった装いは、顔以外に露出する部位など全くない。なのに肌も露わなドレスより、よほど妖艶に見えるのは何故なのか。
「明けましておめでとうございます」
 物静かに進んだしいなが膝をつき、上座のじーさんに向かい両手をついて一礼する。その動きのひとつひとつがやけに優雅で、繊細かつ艶やかな姿に言葉が出ない。
「さあしいな、折角の晴着じゃ。客人にも見て頂くが良かろう」
 じーさんの笑顔に促され、こちらを見たしいなが微笑んだ。少しはにかんで照れた微笑は、冗談抜きに、心臓を射貫く破壊力。
「どう……かな。晴着なんて着たの久しぶりだから、なんだか落ち着かないんだけどサ」
 恥ずかしそうに細めた目元に、仄かに差した朱が際立つ。漆黒の長い睫毛に縁取られ、切れ長の瞳が幽婉な美しさを湛えて輝いて――。
「……え、あぁ、そーね。い、いいんじゃねーの、なかなか様になってるっつーか」
「そうかい? ならよかったよ」
 つい引き込まれそうになりながら、なんとかぎこちない言葉を返した。嬉しげに笑いかけられて、情けなくも頬が熱くなる。
「ね、ゼロス」
 それ以上目を合わせていられずに、さりげなく視線を外したのに。
「今年も一年、よろしくね」
「……それは、もちろん、こちらこそ」
 片言で答える間にも、正面のじーさんからの視線を感じる。
 絶対にからかわれるのがわかるから、当分顔は上げられない。

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