逸らさずに聴かせて

 前日の無理なスケジュールが祟って朝寝過ごしたのを皮切りに、その日は何をやっても上手くいかずに焦っていた。どれもこれも些細なもので、ほんの少し注意していれば避けられたこと。だからこそ余計に苛立ちが募っていたのだが、それを言い訳にはできなかった。

「だからいい加減にしろって言ってるだろ!?」
 怒鳴りつけた勢いのまま、掴まれた腕を振り払った。さして強い拘束でもなかったから、無理に引いた力を殺しきれずに手が振れて、真横の棚を直撃する。
「あ、……っ」
 受け止めるだけの暇もなく。かしゃん、と軽い音を立て、床へと落ちたのは小さな銀細工のロケットだった。何故それとわかったかといえば、恐らくは落下の衝撃で、留め金が開いてしまったから。
「ごめん、つい……!」
「…………」
 頭に上っていた血がさっと引き、一瞬で苛立ちが霧散する。その目の前で無言のまま、落ちたロケットをつまみ上げた男は、やはり何も言わずにしげしげとそれを見つめていた。
「えっと、……それ……」
 もしかして壊してしまったのかと、不安を抱きつつ声を掛ける。しかしなんの返事もなく、それはつまり相当怒っている証拠だと知っているだけに身が竦んだ。
「……壊れてるな、留め具のトコ」
「ご、ごめん……! それ、大事なもの、だよね……?」
「んや、別に。そーでもないけど」
 あからさまに冷たい態度と口調には、台詞とは反する感情があることくらい察せられる。今更謝ってどうなるものでもないのだろうが、他にできることなど何もなかった。
「ごめん。あたしのせいだよね、本当にごめん……」
 顔を伏せ震えて消え入りそうな声で繰り返すと、頭上からはぁ、と大袈裟な溜息が降ってきた。とても顔を上げられずにいると、もう一度、今度は短い吐息がひとつ。
「だから言ったんだよ、ちょっと落ち着いて休めって。でないとロクでもないことしでかして痛い目見るぞって、言おうとした矢先にほらこれだ」
 その声は少しだけ柔らかくなっていたけれど、呆れ返っているのはいちいち聞かずともわかってしまう。それもそのはず、腕を掴んでまで引き留めようとしていたのは、焦っているあたしを落ち着かせようとしてのことだから。それなのにそんな暇はないからと、勝手に苛ついて八つ当たりして。その結果がこれなんだから、そりゃあ呆れられもするだろう。
「……ごめん、ね」
 謝れば許されるなんて期待はない。ただ他にどうすることもできなくて、また同じ言葉を呟いた。
「ま、いーけど。コレね、俺さまのお袋のなんだよね。確か誰かに結婚前の思い出の品だって聞いたっけなー。つっても形見分けで勝手に押しつけられただけなんだけどな」
 淡々と告げられた真相に、血の気の引く音が聞こえた気がした。吸い込もうとした息が絡まって、上手に声が紡げない。
「そんな……大事なもの、あたし……っ」
 思えば彼を真剣に怒らせたことなど一度もなかった。あんなにしょっちゅう殴ったり蹴ったりしていたのに、いつだってへらへら笑って流していて。真面目な顔を見ることは以前より格段に増えたけど、それが『怒り』という感情で表れたことは皆無だったのだ。何をしても許されないことがあるというのは知りすぎるほどに知っている、だから身動きも取れずにただ唇を噛み締める。
「だーからー、別に大事なモノってわけじゃないって言ってるっしょ?」
 痛い沈黙に耐えかねて、でも泣いて逃げるのだけは絶対に嫌で必死に涙を抑えていたら。
「……え?」
 不意にどん、と音がして。
 気がつけば、壁に背を押しつけられていた。
 前髪が触れ合うほどの近さに、口の端をにやりと歪めた顔がある。まっすぐに見つめてくる蒼の瞳は、見慣れたいつもの眼差しだけで、棘も鋭さも潜んでいない。
「そんなに怯えなくてもだいじょーぶよ。俺さま優しいから許してあげる」
「ほんとに、いいの……?」
「うん、いーの。あぁでも――」
 タダってわけにはいかないなぁ、と。何やら企み顔で言われても、非はこちらにあるのだから否やはない。何を言われても甘んじて受けるより他にないと、元より覚悟は決まっていた、けど。
「ねぇ、『愛してる』って言って」
「……え、ええっ!?」
 なんの対価も必要ない、ただ一言告げればそれでいい。
 それはとても簡単で、今すぐにでもできることで、でもだからこそ恥ずかしくてずっと言えないでいるキーワード。
「たまには言ってくれてもいーでしょー? いつも俺さまが言うばっかりで、しいなからちゃんと聞いたことないしー」
「だ……だってそんな、そんなのって、こんな面と向かって言えるわけ……っ!」
「ありゃ、イヤなの? なら無理にとは言わないけどー、言ってくれないなら許してあげるワケにはいかないなー」
「それは、でも……でもあたしはっ……」
 いっそ一晩好きにさせろとでも言われた方が、まだ気は楽だったかもしれない。照れ隠しに暴れないでいるのも難しいけど、こちらから積極的に動くのはそれ以上にもっと恥ずかしすぎる。
「ま、しいなが俺さまのこと愛してないって言うんなら、嘘吐けとは言えないからいいけどな?」
 そうじゃないならちゃんと言ってと、狡い瞳が笑っている。これは絶対に楽しんでいる目、だけど今日ばかりは抗おうにも分が悪い。
「……ぁ、」
 固まって動かない声帯を叱咤して、なんとか口に出そうとするけれど。情けないほど掠れた声も、満足に開いてくれない唇も。言うことを聞いてはくれなくて、代わりに視界がじわりと滲んだ。
「今日だけは、泣いても許してやんないぜ?」
 至近距離からの追い打ちが、鼓動を限界まで押し上げる。ちゃんと見てねと囁かれて、上向かされて目が合った。吸い込まれそうなみずいろに、もうこのまま溶けてしまいたいと思うけど。

『…………あい、してる……、よ』

 他の誰にも聞こえない。
 聞こえるはずのない小さな声は、紡ぐなり塞がれて呑み込まれた。

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