相愛傘
その日は偶然街で出会って、そして丁度良く互いに用事があったところで、でもそこはメルトキオでもミズホでもなくて出先のサイバックだったので。手近にあったカフェでお茶をしながら、打ち合わせを終えた、その帰り。
「……うわー、降ってるなー」
「いつの間に降り出したんだろう、全然気づかなかったよ」
会計を済ませてさて行こうかと外に出て、テラス席がある為に広く取られた軒下で二人、予想外の事態に立ち尽くす。店に入った時には少し雲が多い程度だった空は、今や見る影もないほどに濡れそぼっていた。
「これはちょっと、走れば濡れずに済むかもってレベルじゃなさそうだねぇ……」
生憎と、このカフェから今日の宿までは少々距離があった。傘の用意がない以上、濡れて帰るしかないだろう。覚悟はすぐに決まったが、やはり嬉しいわけはないので、ついつい溜息が漏れてしまう。
「しいな、もしかして傘ねーの?」
「まさか降るとは思わなかったからね。あんたは持ってるのかい?」
「そりゃあ勿論。研究院のおねーさんが今日は降るって教えてくれたから、しっかりばっちり持ってきたのよー」
用意が良いだろと笑いながら取り出したのは、シンプルな無地の折り畳み傘。
「良かったじゃないか、濡れずに済んで。あんたに風邪引かれるとこっちも仕事が滞るからね、ふらふらしないでまっすぐ帰りなよ」
「え。こらしいな、ちょっと待てよ!」
それではと足を踏み出しかけて、慌てた声に止められた。ついでに手首を掴まれて、何事かと顔を振り向ける。
「なんだい? 早く帰らないと、余計ひどくなっちまうだろ」
「いやいやいや、こういう場合はあるでしょ? お約束ってのが!」
「はぁ? なんのことだかわかんないよ、わかるように言いな」
「だぁもー、これだからおまえってヤツは……」
よくわからない遣り取りの後、ぐしゃぐしゃと頭をかき回すゼロスを首を捻りつつ眺める。何やら唸りながらの葛藤はそう長くはなかったらしく、やがてはあ、と深呼吸をひとつ。それから不意に顔を上げ、わざとらしく爽やかな笑みを浮かべてみせて。
「ねーしいな、俺さまと相合い傘してみなーい?」
「…………」
一瞬、それは一体なんだっけと考えて。そしてその意味するものに思い当たって、瞬時に顔に血が上った。
「す、するかアホっ!」
ずざざ、と足音立てて体を引いて、片手を上げて口元を覆う。赤くなった頬を隠すには不足だろうとわかっていたけど、勝手に体が動いてしまったんだからしょうがない。
「えー、なんでよー。突然の雨、カップルが一組に傘が一本、とくればこれはもうやるしかないでしょ? そーゆーシチュエーションでしょー?」
「だっ……誰と誰がカップルだ!」
「んなの俺さまとしいなに決まってんじゃねーの、この場合。問題ないっしょ?」
「ないわけがあるかぁー!!」
街中の、それもカフェの店先だということも忘れて叫んでしまってから、はっと気づいて辺りを見回す。幸いなことに、この雨のせいでテラスにも通りにも人影はなく、扉が閉まっていたおかげで店内にも聞こえずに済んだようだ。ほっと胸を撫で下ろしてから、目の前でにやついているゼロスを睨んだ。
「とにかく、あたしはあんたと相合い傘なんてねぇ……!」
「したくねーの?」
絶対しない、ときっぱり言い切るはずだったのに。
「え……っと、その……」
先回りして言われると、なんとなく言葉に詰まってしまう。ゼロスは相変わらずにやにやとからかうように笑っていて、だから別に切り捨てるのが忍びないとか悪い気がするとか、そういうわけでは全くないのに。
「まあ、しいながどーっしてもしたくないって言うならしょーがないけどー」
澄んだみずいろの目が細められ、にやけた笑みが深くなる。これはもう絶対に、そうは言わないと侮られている。わかっているのに声が出ないのが、負けたみたいで少し悔しい。
「……なぁ、するだろ?」
不意にその顔から揶揄の色が消え、すっと優しげな表情になる。正面からまともに見てしまったら、心臓がどくんと飛び跳ねた。ああもう、こういうのが卑怯だっていうんだ!
「あ、……あたしだって、別に濡れたいわけじゃ、ないしっ……!」
だからそれだけ。濡れたくないだけ。
そんなのただの言い訳だって、自分が一番知っているけど。
「だろー? しいなが濡れて風邪ひかれたら俺さまも困るしなー」
満足げに笑って頷いて、慣れた手つきで傘を開く。それを掲げたその下で、空いた方の手を差し伸べて。
「それじゃ行こうぜ、スイートハニー」
「……誰が『スイートハニー』だい」
素直じゃないあたしは呟いて、そしてそれからその手を取った。
- 2009/10/24