暁回顧

 その夜は、否、その朝はと言うべきか。
 白み始めた明け方の空に浮かぶ月が、いつになく眩しかったから。

「俺さまって可哀想だよなー」
 窓枠に肘をつき体を預け、口元には自嘲の笑みを浮かべて独り言。
 ……の、つもりだったのだけど。
「何言ってんだい、藪から棒に。あんたのどこが可哀想だってのさ?」
 さすが隠密と言うべきか、それとも単なる地獄耳か。ごくごく小さな呟きを、耳聡く聞きつけたしいなが笑う。その手で湯気の立つカップを差し出されたから、ありがたく受け取って一口啜った。
「お、美味い。随分上達したんじゃねーの?」
「紅茶はね。コーヒーの方はまだまだ修行が要りそうだよ」
 日頃はミズホ特有の緑茶とやらを好むしいなだが、郷に入っては郷に従えとばかりに、ここにいる時は紅茶もコーヒーも淹れてくれる。昼間ならセバスチャンに用意させるところだが、この時間にそれは憚られた。勿論自分で淹れてもいいのだけど、やはり恋人が手ずから淹れてくれたものの方が美味しいように思うのは男の性というものか。
「で、一体何が可哀想なんだい? 朝イチに提出しなきゃならない書類が片づかなくて徹夜する羽目になったこと、なーんて言うつもりなら、それにつきあわされたあたしの方があんたよりよっぽど可哀想なんだからね」
 言いながら、こつんと軽く小突かれた。その手を取って緩く握って、引き寄せれば自然と寄り添う位置に体が並ぶ。
「んー。まぁほらあれだ、昔の話だな」
「昔、って……」
「あぁ、違う違う。そんな前のコトじゃねーのよ」
 昔という単語から、ついあの古傷を思い浮かべてしまったのだろう。さっと陰る表情に、努めて明るい声を作る。握っていた手を放す代わりに腰を抱き、花顔に頬を寄せた。
「ちょっと、くすぐったいよ」
「こんぐらいいーでしょ、我慢我慢」
 カップの中身が溢れないように、じゃれ合いも今は控えめに。
「よく一人でこうやって、夜明けの月を見てたのよ。なんだか寝る気になれなくてな」
「夜通し遊び歩いてて寝つけなかったとかじゃなく?」
「あのなー……。いくら俺さまでも、そう毎晩夜遊びばっかりしてられねーっての。寝不足はお肌に悪いんだぞ?」
 苦笑いで言った台詞の応えは、さてどうだかと言いたげな笑み。現在と未来はともかくとして、過去の自分は相変わらず信用のカケラもないらしい。まあ、それも無理からぬことではあるのだが。
「あの頃の俺さまはねー、遊び回って朝帰りするよーな元気はなかったの。なんせ大失恋しちゃって傷心中だったしー?」
「傷心? あんたが?」
「あ、なーによその言い方。信じられないって顔しちゃってまー」
「だ、だって……! あんたが失恋して傷つくほど本気になった相手がいたなんて、そんなの初耳だし……」
 単純に意外だからというよりは、そんな相手がいたのがショックだという様子で、目を逸らし俯き加減になるしいな。わかりやすい反応が楽しくて、ついからかってみたくなる。
「妬いてんの?」
「……別に」
 否定する言葉とは裏腹な、明らかに不機嫌な態度が微笑ましい。とにかくも嫉妬されるほどには愛されている、その実感が嬉しかった。さりとてやりすぎて御機嫌を損ねるのも本意でないから、早々にネタばらしをすることにする。
「ねー、しいなー」
 顔を背けようとするのを追いかけて、とっておきの笑顔で覗き込む。
「それね、二年ほど前の話」
「……二年、前?」
「そ。覚えてるよな? 何があったか」
 間近で絡めた視線の向こう、枯茶色の瞳がまん丸になる。次いでその頬に朱が差して、困惑の表情が浮かんできた。
「でも、それって」
「うん、振ったのは俺さまなんだけどねー」
「なら失恋じゃないじゃないかっ」
 それを言うならこちらの方だと、眉根を寄せて憮然とする。言葉通りなら確かに彼女の言う通り、だがそれだけでは済ませられない思いがある。
「それがそーでもなかったりするんだなぁ」
 軽く笑って茶化しても、つられて笑ってはもらえなかった。だから仕方なく、表情を改めて真面目に答える。
「……本気で惚れた女をね、飽きたふりして突き放さなきゃならないってーのは、これでなかなか辛いもんがあるのよ」
「……っ」
 即座には返す言葉が見つからないのか、開きかけた唇からはなんの音も漏れてこない。やがてしおしおと俯いて、目線だけをちらりと寄越した。
「自分で守ってやれないならせめて、さっさといい男見つけて幸せになってほしーでしょ?  つーことで俺さまのことなんざさくっと忘れて次行けるよーに、精々嫌われようと涙ぐましい努力をしてたワケよ」
 ああ俺さまってケナゲ。
 ふざけた調子でつけ足してから、大袈裟に笑い転げて一息ついた。
「まーでも、結局実を結ばなかったみたいだけど。全く一途というか執念深いというか……」
 残る苦笑に混ざった吐息を逃がしながら、上げた手で黒髪をくしゃりと乱す。絹糸のような感触が、指先にさらりと絡んで解れて、あっという間に滑り落ちた。
「じゃああんたは、すぐ忘れちまった方が良かったってのかい」
 小さく低く聞かれた問いには、ほんの少し、拗ねた響きが見え隠れ。
「ばーか」
 いつも言われてばかりのその言葉を、今日はこちらから柔らかく告げる。返事の代わりは拳ではなく、きゅっと上着の端を握る掌。
「んなワケねーでしょ」
 今となっては。一瞬でも、このぬくもりを手放せると思ったなんて、あまりにも愚かしいことだと知っている。そしてそれはきっと、己一人だけの思い上がりでもないはずだから。
「もう忘れさせてやんねーよ」
 桜色に染まって震えている、耳元にそっと囁いた。

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