霖の節
雨が降っていた。
もう幾日前からだろう。どうかすると太陽なんて何年も見ていないのじゃないかと、錯覚するほどに長く降り続いた糠雨は今日も一向に止む気配なく、しとしとと滴を落としている。すっかり大きくなってしまった水溜まりが、途切れることなく次々と大小の波紋を描いてはゆらり、映し込んだ風景を不規則に乱し揺らめかす。開け放った障子の向こう、目に入る全てのものが白く薄く霞みがかったように仄かに煙って、その幽婉な風情に何故だかひどく心を惹かれた。
密やかな雨音に誘われるように、気がつけばふらりと外に出ていた。こんな時季だからと、用意してくれた傘があるのは知っていたのに持って行く気にはならなかったから、当然だがすぐに服も髪も全てしっとりと濡れることになる。不思議と冷たいとは思わなかった。それなりに気温が高いこともあるのだろうが、なんとなく、この里に特有の包み込むような穏やかさが雨にまで感じられるような気がしていた。
「何やってんだい、こんなとこで」
聞き慣れた呆れ声に振り向けば、鮮やかな朱に花弁模様の傘がひとつ。その下にはいつ見ても優しげな淡い藤色、雨の紗に被われている為か、今日はまた一層に柔らかい。
「この雨に傘も差さないで、びしょ濡れじゃないか」
風邪ひいちまうよと言いながら、錆色の傘が差し出される。やや大振りの男物、確かあんた用にねと言われていたものだと思い出す。使えということなのだろうと、ちゃんと理解はしているのにどうしてか手が動かない。首を傾げた不審げな顔で見つめられ、何か言わなければと思うのに思うだけで結局言葉は出ないまま、瞬きを繰り返す彼女を見つめ返した。
「一体どうしたってのさ。らしくないね?」
言ってふわり、笑う。しょうがないねと言いたげな、呆れ混じりの緩い苦笑。もしかすると一番彼女らしいかもしれないくらい、よく似合っていて好きな表情だ。
「……何、やってんだろーな?」
ようやっと、出てきた言葉はそんなごくつまらないもので。ほんの少し口の端を緩めて笑みを作って、そうしたらなんだか自嘲しているような色になってしまった。あながち間違いでもないけれど、無駄に心配させるのは本意ではない。
「差さないんなら、こっち来なよ」
今度は表情ばかりでなく、言葉でもって仕方ないねぇと呟いてそしてそれからまた笑って、一歩踏み出した彼女が自分の傘を少しこちらへと傾けた。近づいたその距離の分だけ、紗の霞みが薄れていく。
「ほら、入りな……って、きゃあっ!?」
耳元で上がる小さな悲鳴。跳ねる水音。白い手から零れ落ちた傘と、体に掛かる幸せな重み。
それら全てをほぼ同時に知覚して、何やってんだかと今度こそ本当に自嘲する。
特に何も考えもせず、不意に沸いた衝動に任せて引き寄せた。細い手首を掴まえて、ぐいと引けば思ったより遙かに軽く、腕の中に飛び込んできたぬくもりを自分自身驚いて受け止め損ねて一緒に倒れて。おかげで二人揃って見事に濡れ鼠になったというのに、彼女はただびっくりしたと言うだけで、後はからからと笑いながら大人しく抱かれていてくれた。
「悪ぃ、濡れちまったな……」
今更のように思い至って、曖昧な謝罪を口に出す。しかし濡らされた当の彼女はといえば、なんともあっさりと答えたもので。
「いいよ別に。濡れたくらいで死ぬわけでなし」
「そりゃまー、死にはしませんけどね」
だからって、理由も分からず雨の中に放り出されてびしょ濡れにされたら、普通は少しくらいは怒らないだろうか。以前の彼女なら間違いなく、平手打ちのおまけつきで怒鳴られたんだろうなあと考えてから、そうされない今は一体何がどれだけ変わったんだろうとぼんやり思う。
「秋や冬だったら御免だけどね、寒いから」
「考えるだけで風邪ひきそーだな」
「こら、今だってずっとこのまんまでいたら風邪ひくよ」
「あーまぁ、そりゃそーだ」
当たり前のことを、言われてやっと思いつく。けれど抱き止めたぬくもりはどうにも手放しがたく思えてしまって、ついつい名残惜しく捉えたまま、もう少し。
「あんたの気が済むまでつきあうよ」
わがままな願いを謝る前に、先んじて許されたことに驚いた。何故と問うよりも尚早く、くすくすと楽しげに笑われる。
「いい加減長いつきあいだからね。それくらいはわかるさ」
意外だった。彼女は明確な形のないものを察するのはずっと苦手で、殊に人の感情を読むことについては鈍すぎるくらいだと思っていたのに。
「あんたは今も昔も、いつだって大事なことはなんにも言わないけどね。ちゃんと見てたら、これが意外とわかりやすいんだよ?」
「……そーゆーもんなの?」
「そういうもんだよ。だからほら、今日が暖かかったのを感謝しな」
寒かったらつきあってあげないからね。
言って軽やかに笑う彼女を、堪らずにきつく抱き締めた。濡れた衣の冷たさも、張りつく髪の気持ち悪さも、今は何一つ気にならなかった。
錆色→さびいろ:やや赤みがかった茶色。
徒然中。の麻衣羅様へ、サイト3周年記念のお祝いに差し上げました。
- 2009/07/24