蜜色DAYS

 抜き足差し足、忍び足。極力物音を立てぬように、そろりそろりと目当ての背中へ近づいていく。どうにか巧く足音を殺して、真後ろに接近しても当の本人はといえば、目の前でことことと煮える鍋に気を取られてまるで気づく様子もない。
 さて、それでは。
「しーいなーっ♥」
「へっ? ……ぅわあっ!?」
 エプロン姿の腰の辺りに、後ろから両手を回して抱きついた。顔は鮮やかに白い項に埋めるように、とびっきり甘い呼び声もつけて。一瞬遅れて叫ぶのも、飛び上がるのも予想の範囲。あまりにも想像通りの驚き方に、つい顔がにやけるのが止められない。
「ん~、いいにおーい。今日の夕飯なにー?」
「あ、あああんたは何をやってるんだい! 放せっ、離れろ今すぐにっ!」
「はいはい暴れないのー、鍋ひっくり返しても知らないぜー?」
 じたばたと腕を振り回して、藻掻いていたのがその一言でぴたりと止まる。一応、危ないものを持っていないのは事前に確認済みだから、あまり派手にやらなければ被害はない。
「で、しいなさん今日のメニューはなんですか」
「だから……っ! まずその手を放せってば、話はそれからだっ」
「えー、別にいーじゃないのよー、ヘンな所は触ってないし?」
「そういう問題じゃないんだよっ!」
 耳元で騒がれようともお構いなしに、顎を肩口へと載せてやる。少々煩くはあるものの、背中全体でぴたりと寄り添った温みは格別だから気にはならない。
「しいなー、鍋煮立ってるぞ」
「え、……あーっ!」
 遠慮なく上げられた大声が、至近距離の耳にきぃんと響く。堪らず一瞬だけ目を瞑ったが、それでも離れることはせず、慌てて火を弱める様子を後ろから眺めた。
「ふぅ……。噴きこぼれる前でよかった」
 蓋を持ち上げてお玉で中身をかき混ぜて、煮え具合が落ち着いたところでほっと一息。どうやら覗き見た限りでは、煮込まれているのはシチューらしい。まだルーが入っていないから、完成品を想像するのは難しいが。
「俺さまのおかげで助かったでしょ?」
「まあそうだね……って、そもそもあんたが余計なことしなければ、その必要もなかったんだよっ!」
「あ、ばれた?」
「ばれるに決まってるだろ!」
 抱いているのは腰だけだから、両の腕は自由のまま。だが真後ろにくっついているせいで、今日はお得意の平手は飛んでこない。慣れてしまえばそれさえも楽しいが、痛い思いをせずに済むのは悪くはない。その分怒声の方は激しくなるが、まあそれはそれというヤツで。
「まーまー、料理は楽しくやろーぜー? その方が美味くできるって、なっ」
 わざとらしく茶化すような台詞は、処置なしと諦めてくれるのを期待してのもの。
「もー、いいからとにかく離れなってば……」
「それはできない相談だなー」
 狙い通り、深々と溜息をつきながらの抗議は形ばかりで、半ば呆れの色が強い。これ幸いと擦り寄って、しなやかな体を堪能する。
「こら、そんなにくっついたら邪魔だろっ」
「ちゃんと両手は空けてるでしょー? こんくらい我慢してよ」
「あのねぇ……。なんであたしが、あんたのワガママを我慢してやんなきゃならないんだいっ」
「そーねー、やっぱしいなだから?」
「理由になってないよ!」
「じゃあしいなが俺さまのスイートハニーだから」
「だーかーらーっ!」
 言い合う間にも時間は進む。作業に集中してしまえば、纏いつかれているのもとりあえず置いておけるのか、てきぱきと動く手に迷いはない。
「……なー、しいなー」
「なんだい? もうじきできるから、邪魔するんなら離れとくれ」
「別に邪魔はしねーって。そーじゃなくてさ」
 これといった理由はない。ただなんとなく、そう思った。
「こうしてるとさー、なーんか……俺さまたち、新婚夫婦みたいじゃねー?」
 がしゃん。
 やたら景気のいい音を立て、床に落ちた鍋蓋が倒れる。ちょうど持ち上げていた手の中から、把手がすっぽ抜けてしまったらしい。原因なんて言わずもがな、いちいちこんな反応をするから遊ばれるのだと、いつになったら気づくのやら。いや、今のは決して狙ったわけではないのだけど。
「な、なっ……なんてことを言い出すんだい、あんたはっ!」
「だってそー思ったんだもーん。結構似合ってるぜ、そのエプロン」
 言いながら、解けない程度にくいくいと、結ばれたリボンを引いてやる。本来はこの屋敷のメイドが使うのを、今は拝借している真っ白なそれ。
「そ、そんな、ことっ……」
 いちいち顔を覗いて見るまでもなく、狼狽えて真っ赤になっているのが窺える。
 すっかり固まってしまった恋人を抱き、そっとつけっぱなしの火を消した。できあがったシチューが冷める前には、放してやろうかと笑いながら。

小説ユーティリティ

clap

拍手送信フォーム
メッセージ