姫君と騎士
「しいなってさー、ミズホの頭領の孫娘なんだよなあ」
穏やかな陽気の昼下がり。
ミズホ独自の建物の、縁側とかいう寛ぎスペースで日光浴を堪能している貴重な時間。
「そうだよ。まあ、おじいちゃんには実子がないから、実際の続柄としては娘ってことになるのかね」
奥の座敷から、盆を持ってやってきたしいなが隣に座る。
ことりと置かれた湯飲みを取って、澄んだ若草色の緑茶を啜ると、独特の香りが広がった。
ここに通うようになって大分経つ。だからだろうか、最初は違和感のあった味にももうすっかり慣れてしまって、この苦みはなかなかいけると思い始めていたりもする。
「お、今日のお茶請けはどら焼きですか」
できたてできっとまだ温かい、柔らかそうな甘味に手を伸ばす。メルトキオの有名菓子店では決して出会えない、素朴な味わいが堪らない。
「うーん、あんこの甘さが絶妙だなー。さっすがしいなさんのお手製」
「そりゃどうも」
そのまま暫し、糖分の摂取に専心する。基本的にどんな料理でも器用にこなすしいなだが、やはりミズホ料理は格別なのだ。
「しいなといると、俺さまそのうち太りそー」
「嫌なら精々運動するなりして消費するんだね。でもミズホ料理はヘルシーなんだよ、あんまり油使わないしね」
「あー、それは確かに。じゃあいーや」
「いいのかい……。ま、あんたは美味しそうに食べるから作りがいがあっていいけどね」
半ば呆れた風に笑われても、嫌な気分にはならなかった。つられて笑う、和やかな空気。
二つ目のどら焼きを食べ終えて、緑茶を飲んでほっと一息。空になった湯飲みには、用意の急須からさっと代わりが注がれた。
「……気が利くよなぁ」
「こういう事に関しちゃね。小さいときから仕込まれてるし」
メルトキオのハニーたちは、こんなこと誰もしてくれない。
当然と言えば当然だ。彼女たちは皆、側に控える使用人が注いでくれるのを待つ立場。カップが空になったなら、メイドを呼びつけてそれでお終い。決して、自分が立って注ごうとはしない。令嬢とはそういうものだから。
「でも、お嬢さまなんだよな」
「……は?」
「おまえが。お嬢さまだろ? 里の頭領の一人娘」
頭領は一応、この里で一番偉い権力者、のはず。だったら養子とはいえその孫娘で、次期頭領の跡取りでもある彼女は、ミズホで一番のお嬢さまと呼んでいいはずだ。
「いやまあ、そう考えればそうなのかもしれないけど……。別に頭領だからって、他のみんなよりいい暮らししてるわけでもないんだよ?」
「でも家は一番でかいじゃん」
「それは集会で使ったりもするからだよ。普段使ってる部屋は数も広さも普通の家と変わらないよ」
「庭も広い」
「近所の子供たちを呼んで鍛錬するのに要るんだよ」
「……台所も大きいし」
「宴会やるときに炊事場が狭かったら大変じゃないか」
「…………」
しまった、もう出てこない。
ミズホの生活様式を完全に理解しているわけでなし、ましてや調度品の類を見分けるにはまだまだ経験が足りなすぎる。
「わかったろ、ミズホはメルトキオと違って身分の差なんてないからね。頭領だけが優遇されてるわけじゃないんだよ」
からりと言い切られてしまっては、反論する余地がなく言葉に詰まる。尚も未練がましくでも、だって、と口の中で繰り返しても、これはという意見は浮かばなかった。
「なんだい急に。あたしがお嬢さまじゃないと困ることでもあるのかい?」
ぎくり。
言い当てられて背筋が冷える。
言えば恐らく、笑われるか呆れられるか、殴られるかのどれかしかない。割とどれも御免被りたいのだが、多分そんな訳にもいかないのだろう。
「いやー、あのですね、ホラ、なんつーか……」
「隠したってためになんないよ。さっさと吐いちまいな」
後半にぐっと下がるトーンが恐ろしい。これは殴られるコースのフラグだろうか。
「あー……。その、な」
横目で睨まれる視線が見る間に氷点下の冷たさになり、観念してがくりと肩を落とした。
深くふかーく溜息を吐き、意識して外れた方に目をやって。
「海よりひろーい心を持つ俺さまでもさー、俺さまの大事なスイートハニーを『あの女』呼ばわりされたりするとちょーっとカチーンときちゃったりするわけなのよ」
焦る内心に気づかれぬよう、ぺらぺらと矢継ぎ早に喋り続ける。
「だからって可愛らしくジェラシーに燃えてるハニーたちを怒鳴りつけるわけにもいかないでしょー。
つーかそんなことしたらしいなに怒られちゃうでしょ、俺さまが」
「当たり前だろ! 散々気を持たせて遊んでおいて、ちょっと気に障ったら無下にするなんてサイテーだよ」
「ちょ、だからしてないってーの! ぐっと我慢して笑顔で対応したっつの」
「……ならいいけどサ」
「でーもさー、ハニーたち以外にも煩いヤツが結構いるのよ、しきたりだの身分だのとうだうだと。俺さま正直そろそろ限界なのね、一発ぎゃふんと言わせてやりたいのー」
言い切ってへちゃりと床に突っ伏す。広がった髪に邪魔されて、しいなの顔はちらとも見えない。
「それがお嬢さまとどう繋がるのか、あたしにゃさっぱりわかんないけどね……」
はあ、と嘆息するのが気配でわかる。
抗議の意味を込めてじたばたと両手を動かして、子供のように駄々を捏ねた。
「あーいうヤツらってのはー、高貴な身分とかー、血筋とかー、家柄とかー、そーゆーのに覿面に弱いワケ。だからしいなが実はミズホではいいとこのお嬢さんなんだって言えばちょっとは待遇変わるかなーとか期待しちゃったりしたんですー」
思いっきり、全身から拗ねてますよとメッセージを発しつつ、その場でごろごろと転がってみる。磨かれた板で作られた床は柔らかくはないけれど、午後の日を受けてどこもほんわりと温かかった。
「もう……ばっかだねぇ、あんたは」
半回転分、余分に回って仰向けになる。
上げた視線の先、変わらずきっちりと正座のままの彼女がいた。
降り注ぐ日差しを背負う微笑が、どうしようもなく優しくて不意に泣きたくなったりして、でもそれはあんまり情けなさすぎるから瞬きひとつして誤魔化して。
「うん、すげーばか。俺さましいなのことになるとばかになっちゃうみたいよ、どーも」
だってそうとしか答えられない。
今だってはいはいと流されて、ちゃんと起きなと腕を取られて引っ張られて。これじゃまるっきりガキ扱いじゃないか、なのに嫌だなんてこれっぽっちも思えやしない。
「どうせそういう輩はね、ミズホの民そのものを変な奴らだって見下してんのさ。だからその中で家柄がどうの育ちがどうのと言ったところで変わりゃしないんだよ。気にしないことさ」
起こされてやっと胡座をかいたその横で、微笑んだしいなが賢しげに言う。
それは至極まともなことで、普段ならその通りと頷いてお終いにする話。でも今は。
「……だって悔しーじゃないのよ」
たったひとり本気になった女を、悪し様に言われて返す言葉がないなんて。
これまでの放蕩ぶりを知らぬわけでもない癖に、純粋な神子さまを誑かした悪女だなどと影でこそこそ言い回る。先に惚れたのはこちらの方で、必死に口説き落としてやっとの思いで捕まえたのだと、いくら言葉を尽くして説いて回っても口さがない者の噂話は消えはしない。いっそ明確に喧嘩を
売ってくれれば、こちらも大っぴらに角を立てられるものだというのに。
「まあね、その気持ちはわかるけど」
「でしょー、俺さまちょーくやしい。もっと自慢したい、しいなはこの俺さまに釣り合っちゃうほどのすっげーいい女だって主張したい」
「そこは社交辞令として『俺さまには勿体ないほどの』って言うところじゃないのかい……」
「見目麗しく文武両道に優れおまけに世界まで救っちゃった俺さまには勿体なくない」
「あ、そ」
思いっきり呆れられた。ちょっとひどい。
「でもさ」
ひらり、吹いた風が束ねた黒髪を靡かせる。
日の光に艶めくそれは、綺麗すぎて胸がざわめいた。
「あたしはいいよ。あんたがわかってれば、それで」
「あー…………くそ」
やられた。完璧に。
だってそれは、反則、だ。
不意打ちで最高に綺麗に笑って、そんな殺し文句のおまけつきだなんて。
「負けたわ。うん、いいよなそーだよな。俺さまとおまえがわかってりゃそれでいーよな」
「なんだかわかんないけど、納得したならそれで良しだよ」
うんうんと無駄に激しく頷く度に、収まらない気持ちが霧散した。景気づけに勢いよく伸びをして、そのまま背後へひっくり返る。
気分は上々。先行きに不安なし。
「あーでもハニーたちには使えるかも。こんなとこまで絶対来ないしー」
「そりゃあメルトキオの連中は来ないってより来られないだろうけど……」
「お嬢さまじゃインパクト薄いかな、いっそ姫にするか。瑞穂の里のお姫さま。お、いいじゃんコレ」
「ひっ、姫!? やめとくれよそんな恥ずかしい!」
「いーじゃんこれ採用~。貴族のご令嬢たちも姫君が相手じゃ敵わないっしょ、ヒルダ姫以外はパーフェクト!」
「やめなってば、知り合いに聞かれたら恥ずかしいだろっ」
「俺さまプリンセスガードなんて称号も頂いちゃってるしー? ミズホの姫君、お守りしますーってな」
「あーもうこのバカっ、ふざけてるんじゃないよっ!」
「ふざけてないもーん。俺さまはいつだって真剣よー、あでっ!」
「殴るよっ!」
「殴ってから言うなー!!」
- 2009/04/24