指先の魔法
「ゼロス、ちょっと」
「んー? なによ、しいな」
何の気もなく、たまたまその脇を通りすがった所で呼び止められた。その用が何であろうと、呼んでくれるのが嬉しかったから立ち止まる。勿論、そんなのは表になんて出さないけれど。
「ここ、裾が破けちまってるよ」
ひらり靡いた上着の裾を、ついと捉まえた白い指先。示された箇所には、確かに小さくはない裂け目があった。
「ありゃ、参ったな。さっきの戦闘でやっちまったか」
「みたいだね」
「さすがの俺さまも裁縫まではできねーしなー……。しゃーない、今度メルトキオに寄った時にでも換えを調達しとくかな」
このまま放っておくのもみっともないが、今は仕方あるまい。そう思って掴まれた裾を取り上げようと手を出すと。
「しょうがないねぇ、ちょっと貸しな」
「おぉ? 貸すって、何を? どーゆーコトよ」
「だから、その上着脱いでこっちに寄越しなって言ってるんだよ。ほら早く」
「あ、あぁ……」
言われるままに上着を脱ぎ、早く早くと差し出された手に丸まったままのそれを渡した。受け取るが早いか、その懐からさっと取り出されたものはと言えば、見紛うことなき針と糸。
「悪いけど合う色の糸の持ち合わせはないから、ちょっと不格好になるけど我慢しとくれ」
「それは勿論……っつーか、おまえがそれ、直してくれんの?」
「あたしじゃ不満かい? そんなに上手いとは言えないけど、繕い物くらいは一応できるよ」
「いやいやいや。不満なんてとんでもない」
慌ててばたばたと両手を振って違うと示す。しいなはさして気を悪くした風でもなく、苦笑してじゃあ待ってなと言い置いて、さっさと針に糸を通しにかかる。なんとなく、その場を去るのも躊躇われて、その横にすとんと座り込んだ。
「……上手いもんだなぁ」
彼女の指先が動く度、魔法のようにくるくると針が進んで一目ずつ裂け目が塞がっていく。慣れた手つきが危なげなく、感嘆を込めて見守った。
「そりゃどうも。あたしも昔は修行で失敗したりして、しょっちゅう鉤裂き拵えてたからサ。こういうのは慣れてるんだよ」
「自分で全部直してたワケ?」
「そうだよ。他にやってくれる人もいなかったしね」
「なるほどねー……」
決して楽しい思い出ではなかろうに、手を止めず話すしいなの表情は穏やかだ。深く突っ込むのは憚られて、曖昧な同意を控えめに送る。その間にも器用な手は休みなく動いて、見る間に元通りの形に戻ってしまった。後に残ったのは、綺麗に整った針目だけ。
「はい、おしまい」
結び止めた糸をぷつりと噛み切り、言いながら仕上がった上着を渡される。繕われた位置を目の高さに持ち上げて、しげしげと見つめて溜息を吐いた。
「ほー、キレーに直すもんだなー……」
「手先は器用な方だからね」
「だな。助かったぜ、ありがとな」
「どういたしまして」
珍しく素直に礼が言えたからか、しいなも機嫌良く笑ってくれる。そんな他愛のないことが、嬉しいのが少し可笑しかった。
「そーいえばおまえ、なんで裁縫道具なんて持ってんの?」
黙っていたら変ににやけてしまいそうなのを誤魔化して、ふと浮かんだ疑問を口にする。暗殺にしろ諜報にしろ、どちらかというと荒事が領分である彼女が旅の空で常備する品としては、なんだか不似合いに感じたのだ。ミズホにあるその自宅でならば、違和感もなく馴染むのだろうとも思うけれど。
「ミズホの女はね、いつ何時であろうと、針と糸くらいは持ってるのが嗜みってもんなんだよ。こうやって服の裂けたの繕ったり、釦の飛んだの縫いつけたり、急に要ることが多いからね」
「タシナミ、ねぇ……」
日頃彼女を称してがさつだの暴力的だの、女らしくないのと散々に扱き下ろしているけれど。こういう所を見てしまうと、実はこのパーティの他の女性陣の誰よりも、淑やかで女らしいのではないかと思わされる。ミズホではなんてことない当たり前のことで、しいなが特別家庭的なわけではないのかもしれないが、それでも。
「なー、しいなー」
わざとらしく、子供っぽい言い方で呼んで甘えかかる。突然肩に懐かれて、驚いたしいなの体がびくんと跳ねたが構いはしない。多分払い除けられることはないだろうと、今は信用しているから。
「な……なんだい、急に変な声出してっ」
「今日の食事当番、しいなだったよなー」
「そうだけど、それがどうしたって言うんだい」
「俺さま、今日は肉じゃが食べたい。しいなの手作りの肉じゃがー」
「そりゃ、材料があれば構わないけど……。どういう風の吹き回しだい、あんたがミズホ料理を食べたがるなんて」
胡乱げに言いながらも、郷里の味を所望されるのは満更ではないのだろう。声が少しばかり笑っている。
「俺さまミズホ料理好きよ? つーか、しいなが作るものならなんでも好きだしー」
「はいはい、言ってな」
軽くあしらわれて、でも決して嫌そうではなくて。
そんなひとときの平穏な空気が、今はただひたすらに愛おしい。
- 2009/06/24