Cold Fever
一生の、というほどのことはないけれど、やっぱりこれはちょっと……不覚、だ。
たまたまここ最近野宿続きで、しかも襲ってくる魔物の数が半端でなくて、毎日の連戦でいい加減疲れも溜まっていて、だからなのか何なのか、夢見が悪いのが重なって寝不足のおまけまでついてくれたりして、まあつまりは疲労困憊、体力も相当すり減って限界に近い状態だったのだろう。しかしだからといって、ようやっと街に着いて落ち着いた途端、ぶっ倒れるというのはあんまり情けない話じゃないだろうか。いくら諸々の条件にプラスして、とどめとばかりに大雨に降られてびしょ濡れになった事実があったとしても。
「俺さま、かっこわりー……」
腫れ上がった喉のせいで呼吸が苦しい。いつもの軽口さえ容易には紡げず、掠れて途切れがちな声はいかにも病人といった調子で鬱陶しいことこの上ない。
「いいじゃないか、風邪ひくくらいには馬鹿じゃなかったってことだろ」
割と酷いことを言いながら、しいなの白い手が伸びてきてぺたりと額に当てられる。ひんやりしたそれがとても気持ち良かったから、今の体温はかなり高いのだろうと思う。
「うーん、下がらないねぇ……」
彼女は持ち上げた手をひらひらと振り、その手をベッドサイドに置かれた洗面器へと向かわせる。なんとなく目で追ったその先で、沈んでいたタオルを取り上げた。次いで手の中のそれを絞り上げる動作が続き、ぼたぼたと水が落ちる音がする。瞬きひとつして目を開くと、僅かの間に濡れタオルが額の上に載せられていた。
「つめて……」
よしよしと子供にするみたいに撫でられて、ガキ扱いするなと怒ろうとしたのに。つい反射的に目を細めてしまって、これじゃまるで喜んでるみたいじゃないかと情けなくなる。こちらを覗き込むしいなの顔は、あまり見たことのない落ち着いたもの。安心させるように緩く微笑んだ穏やかな姿が、想像の中でしか見たことのない母親のそれと重なった。
「そろそろ昼だけど、何か食べられそうかい?」
「……食欲、は、あんまり」
「熱もまだ高いしね……。でも薬飲まなきゃいけないから、少しは食べないと」
「そー、だなぁ……」
呟くような言葉と共に、体内に籠もった熱を吐き出そうと試みたが、あまり上手くはいかなかった。仕方なく吐息だけをもう一度、溜息の形で吐き捨てる。
「リクエストがあれば聞いてあげるよ」
あたしに作れるものならねと、つけ足されてふと疑問符が浮かぶ。
「あれ……おまえが、作んの?」
別に不満があるわけではない。彼女の料理の腕はかなりのものだし、わざわざ俺の為にと思えば嬉しくもある。しかしこういうとき、小生意気な悪態をつきつつも真っ先にその役目を買って出るちびっ子だとか、味覚というものを一切考慮せず、理論上体に良いとされるものをやたらめったら詰め込んだトンデモ料理を作ろうとするお姉さまとかは一体どうしてしまったのか。思えば倒れた後ここに運ばれて以来、しいな以外のメンバーを一度も見ていない。見舞いの言葉のひとつもなしとは、なかなか薄情ではなかろうか。
「あぁ、そういやまだ言ってなかったっけね。今ちょうど、ジーニアスも熱出して寝込んでるんだよ。だからロイドとコレットはそっちの方につきっきりさ。リーガルはリフィルの病人食作りを止めるのに必死だし、プレセアはみんなの代わりに買い出しに行ってくれてるんだよ」
だからあんたのお守りはあたしの担当。そう言って笑うしいなにも、よく見れば幾分疲れの色が窺える。確か昨日この街に着いたのが昼過ぎで、盛大な夕立に降られて体調を崩したのが夕食後。がきんちょが倒れたのも同じくらいとするならば、もしかして彼女はそれからずっと、一人きりで看ていてくれたというのだろうか。
「しいな……おまえ昨日、寝てない、のか……?」
「ん? ああ、大丈夫だよ。あんたが寝てる間にちゃんと休んだから」
からりと言ったその言葉は、きっと嘘ではないのだろう。問題は、しいなの言う『休んだ』という言葉と、世間一般で言う『休んだ』の間に大分差があるに違いないことだ。隠密として詰んだ修行の為に常人より無理が利くことと、少々行きすぎた自己犠牲精神を持ち合わせているそのせいで、彼女はとかく自分の気持ちやら体調やらを数に入れ忘れる嫌いがある。それでも完全に度外視することはさすがにないから、普段はどうにでもなるのだが。
「おまえな……っ、一晩中こんなとこにいたら、俺さまの風邪、うつる、だろーが……!」
熱で朦朧とした頭を更に沸騰させながら、やや長い台詞を一息に吐き出した途端咳き込んだ。慌てて身を寄せてくるしいなから、必死で顔を背けて口元を覆う。抑えた手の下で止まらない咳を逃がしつつ、こいつは本当に馬鹿じゃないのかと自問する。まだお子ちゃまで体力のないがきんちょはともかく、この俺さままで倒れるくらいなんだから当然他のメンバーだって疲労している。しいなだってそれに漏れず、どころか精神力をやたらに食う召喚を景気よく連発していたんだから、他より負担が軽いなどということはないはずなのだ。なのに感染源となる病原菌だらけのこの部屋で、ろくに休みもせず終夜つき添っていたなんて。下手をすれば次は自分が倒れる羽目になると、予想もできなかったのか。やっぱり馬鹿か、いや馬鹿は風邪を引かないとも言うけれど、この場合それはどうなんだ。
「大丈夫かい?」
「大丈夫じゃ、ないの、は……、おまえの方、だっつーのよ……」
心配そうに眉を曇らせ、背をさすろうと手を伸べてくるお人好しぶりには嬉しいけれど溜息が出る。ああもう、だからそんなに近寄ってきたらうつるってのに。
「平気だよ、あたしだって自己管理くらいできてるさ」
「おまえの、その発言はっ、……信用できねー、っての」
「はぁ……。それ、今実際に寝込んでるあんたに言われたくないねぇ」
どうにか咳の収まったのを見計らい、早急に隔離すべく苦言を呈そうとしたのだが。そう冷静に突っ込まれてしまえば、熱に浮かされた頭ではいい反論が見つからない。どう説得するべきか、動かない頭を無理に使い考えようとする目の前で、しいなの呆れ顔がふわりと緩む。
「それにさ。夜中に目が覚めた時、誰もいなかったら寂しいだろ?」
だからついててやりたかったんだよ、と。
優しく、柔らかく微笑まれて、心臓がどくんと飛び跳ねた。
高熱のせいで体中のあらゆる関節が痛むのに、相変わらず腫れの引かない喉も十分以上に痛いのに。この上心臓までも痛いだなんて、もうこのまま死んでしまうんじゃないんだろうか。
「治るまでちゃんとついててあげるから、安心してゆっくり養生しなよ」
これ以上ないほどの慈愛の笑みで。麗しの専属看護師は、とてもゆっくりはできない台詞を吐いてくれた。
- 2009/05/24