まもりたいもの
二度と故郷の地は踏めぬやもと、覚悟してやってきた異世界はあまりにも想像と違っていた。
搾り滓のようなマナは荒廃した大地を潤すには程遠く、大気中のそれは魔術が満足に発動するのが信じがたい薄さで漂うのみ。文化レベルも低く、統一王朝さえも大昔に滅んで久しいという。八百年、それだけの長きに渡り、虐げられ搾取されてきた世界の成れの果て。
神子が救世主と崇められ、再生が待ち望まれるのも無理はなかった。こんな世界を背負わされた当人もまた、救わねばと思い詰めて邁進するのも。
「コレット」
隣に座る、声を失った少女に問う。なあに、と言うように振り向き首を傾げた彼女に、なんと話したものか暫し迷った。
「あんたは、辛くないのかい」
我ながら馬鹿な質問だ。辛くないわけがない、そんなこと聞くまでもなくわかるだろうに。
座ったまま膝を詰め、寄ってきた彼女に手を伸べる。答える声を持たない彼女が、唯一意志を伝えられる手段を与える為に。
"私より、もっと辛い思いをしている人が沢山いるから"
広げた掌に一文字一文字、書き終えた彼女が淡く笑う。辛くないとは言わない、その正直さが哀れを誘う。
「あたしは……あたしの世界の為には、やっぱりあんたを殺すべきなんだろうね」
"そうかもしれないね"
告げた言葉に反して、殺気のないことは承知なのだろう。怯えるでもなく、警戒もせず悠長に書き記す彼女を、今の自分はとても殺せない。
「でも、さ……。それでも、この世界の惨状を見たら、救ってやりたいとも思うんだ」
世界の為と、これ以上ない大義名分を掲げてやってきてこの体たらく。本当は今すぐにでも、二人きりのこの好機を狙いその細い喉を掻き切らねばならないのに。
"ありがとう"
綴り終えて笑う、その表情があまりにも綺麗で。だからこそ堪らなく悲壮で、きっとこの先の運命も予想した上で受け入れてしまっているのだと感じさせる。
「この世界を救ってしまったら、あたしの世界は衰退する。いずれ、ここのようになってしまう。それは絶対に許せない」
知らず握り締めた右手が、ぎりりと音を立て我に返る。爪が食い込んだ掌を、逆側から伸びた手が覆って包み込んだ。
「だから……それならやっぱり、あたしはあんたを殺さなきゃならないんだけど、さ」
促すように見つめる青い瞳の向こう側に、それより薄い蒼を映し見て胸が痛んだ。最後に別れを告げた日の、気遣わしげな眼差しが鮮やかに脳裏に浮かぶ。口では軽薄な戯言を並べながら、その実心配もしているのが彼らしかった。
「あたしね、あっちの神子を知ってるんだ。いけ好かない奴でね、あんたとは大違い。いっつもふらふらしてて、ナンパばっかりするふざけた男なんだ」
こくりこくり、頷いてくれるのを見ながら喋る。なんでこんなこと話してるんだろう、話したってどうにもならないのにと思っても、今は聞いてくれるのがありがたかった。
「色々ひねくれててさ、多分あいつは世界なんてどうでもいいんだろうね。だからいざ衰退期に入って神託が下りたとしても、そんなのやだーって放り出しちゃうんじゃないかって思うんだ。そういう奴なんだよ」
それは非常に簡単に想像できる光景だった。聖堂に現れた天使サマ、その面前で旅なんて真っ平だと嘯く彼、周りを固める人々の呆れる姿。そしてあたしはきっと、そんな彼の頭をいつものように派手に殴って、ちゃんと話を聞けと怒鳴るのだ。
「なのにさ……。散々文句言って、嫌だの面倒だのとだらけて、全然やる気なんかないくせに……それでも、結局はしょーがねーなってへらへら笑いながら旅立つんだよ」
そして好きでもない世界の為に、大事なものを無くしながら少しずつ身を削って捧げていく。今の彼女のように。
「あたしは、あいつのそんな姿見たくない。だからテセアラの衰退は止めなきゃならない。でも……」
今目の前にいる彼女は、そのまま将来の彼の姿を映している。彼の再生の旅の途中、今度はまたこちら側の住人が、その命を狙うのだろうか。何故だか脳裏の暗殺者は、ロイドの姿をして現れた。単に想像しやすかったからかもしれない、コレットを守る為にやってくる赤い衣装のナイト役。その時のこちらの神子は、当然コレットではないことなんて、考えるまでもなく明らかではあったけれども。
"しいなは、その人が大切なんだね"
"でも、しいなは優しいから、この世界の人たちも助けたいと思ってくれるんだね"
再び開かせた左手に、ゆっくりと丁寧に綴られる文字。読み終えた途端、堪えていた何かが溢れ出して、一瞬のうちに感情の制御が効かなくなる。あ、と思った時にはもう、塩辛い滴が頬を伝い落ちて膝の上に染みを作った。咄嗟に右手で顔を覆い、漏れそうな嗚咽を抑え込む。きっと長くは保たない、でも泣けもしない彼女の前で、あたしなんかが先に泣く訳にいかないじゃないか。
指文字を綴る代わりに、細い腕が伸ばされてそっと抱かれる。ぬくもりさえ感じられないのだと言うのに、寄り添った彼女の体はちゃんと温かくて、それが余計に悲しかった。
声なき声が伝えるのは、精一杯の"ごめんね"と"ありがとう"。彼女が謝ることじゃないのに、しゃくり上げながらただ首を振るしかできない自分が歯痒い。
きっとあたしは無い物ねだりで、どれも選べなくて迷っているだけなのだ。そして徒に時間を浪費している。本当にテセアラを、そして神子である彼を思うなら、今すぐにコレットを殺して逃げ帰るべきだ。この世界に同情し、優しすぎる少女に残り僅かの生を望むのなら、生まれ故郷と腐れ縁の思い人はきっぱりと見限らねばならないのに、どちらもできず藻掻いている自分は、結局のところ弱虫の偽善者で卑怯者だ。
本当に泣きたいのは彼女の方だろうに、その小さな体に祈るように縋ったまま、どうしても涙が止められなかった。
- 2009/04/24