無警戒領域

 切っかけは、ちょっとした悪戯心。
「しーいーなーちゃんっ」
 腐ってもシノビなんだから、いくらなんでも寝込みを襲われれば気づくはず。そうしたらいつものようにきつい平手が飛んできて、真っ赤になって喚く彼女にじゃれついて遊んで構ってもらえる。我ながらガキ臭いやり方だと思うけれど、これが今望める一番濃密なスキンシップだから仕方がない。
 仕方がない、のだが。
「…………あ、あれ?」
 おかしい。反応がない。
 ベッドの中眠る人影に飛びついた形のまま、一向に起きないしいなの様子をそろそろと窺う。もしかして部屋に忍び込んだ段階で気づかれて、空蝉の術だかなんだかいうアレで丸太に変わっていたりするんだろうか、なんて。
「いや本気で寝てるし……」
 一瞬で頭を駆け巡った想像は綺麗さっぱり外れていて、覗き込んだ布団の中には柔らかな体がしどけなく横たわり安らかな寝息を立てていた。眠っているからだろう、少し高い体温が布団越しにじんわり伝わってきて、間近で見る寝顔と相俟って脈拍をじりじりと押し上げる。凛として些かきつい印象を与える顔立ちが、瞳が閉じられているだけで意外なほど幼く愛らしく見えるのが不思議だった。
(くそー、かわいいなー……)
 卑怯だ。こういうのはもうちょっと年下で可憐な少女の、そうコレットとかプレセア辺りが持ち合わせるべき要素であって、もうじき二十歳になろうかという悩殺ダイナマイトボデーの持ち主が所持していていいものじゃない。もっとこう大人の色気とか妖艶さとかそういうのをだな、っていや待てそんなのがこいつに備わってても困る。凄く困る。主に俺さまの理性とか嫉妬心とか独占欲とかその辺が。
「しーいなー……」
 どうにもこの寝顔を見ていられなくて、かといって自分からは離れ難くて、いっそもう起きてぶん殴ってくんないかなこの変態とか言ってもいいから、なんて思い始めてみたりする。かなり情けない感じで名前を呼んで、つん、と指先で頬をつついた。やってから後悔した、滑らかで柔らかくてマシュマロみたいなその感触は、ひと突きで理性の耐久値をずがんと削り取ってくれたので。
「早く起きろっての、アホしいな」
 大体なんなんだこの弛みっぷり。前々から抜けてるとは思ってた、称号はなくてもこいつも十分に
ドジっ娘だ、そんなことは今更気づくまでもなくわかってたんだ。だけれども!
(大の男にのし掛かられても起きないって、それはちょっとどーなのよ?)
 シノビとして云々というよりも、これはもう女としてどうかという領域だ。そもそも就寝中の部屋に鍵をかけ忘れることからして問題だが。夜這いでもされたいのか、むしろして欲しいのかそうなのか。
「ねぇしいなー、起きてちょーだいよもう朝よー……」
 ああ、カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。令嬢を襲う吸血鬼の如く、干涸らびて灰になりそうだ。血じゃなくて愛が足りない、今この瞬間にもの凄く。
「んー……」
(あ、やっと起きた?)
 僅かに伏せた睫毛が揺れて、鼻にかかった甘い吐息が鼓膜を穿つ。やばいと思ったがどうにか耐えて、ゆるゆると開く瞼を待った。
「…………ぜろす?」
 しかして彼女は、更なる凶悪な武器を振るって哀れな犠牲者を滅多打ちにしてくれちゃったりするわけです。ああもうホントにこいつは。
(おまえなぁちょっとそれは反則だろうよ! 寝起きの掠れ声で舌っ足らずに呼んでくるとかどういう精神攻撃よ、俺さまの理性の限界に挑戦とかそーゆーコトなの、ねぇしいな!?)
 高速で浮かんで消えた思考など、まるっきり知らず気づかず夢うつつ状態の脳天気な女に軽く殺意を覚えつつ、されど切実な叫びは実際ひとつも声にならずに頭の中を巡るばかりで動けもしない。そうしてただ黙って硬直しているうちに、元凶の彼女はなんとも幸せそうな顔でふにゃりと笑って、そして。
「んー、ぜろすぅ……」
「…………な、なっ、おま、ちょっ、えっ……!!」
 ちょっと待てよこら、なんでこの状況で怒らないどころか笑いながら腕を回してきて抱き締めちゃったりするんですか。寝惚けてるにも程がありませんか。冗談ならやめて下さい本気できつい、っていうか夢なら覚めて今すぐに!
 瞬時に沸騰した脳味噌は、既にまともな思考をしてくれない。心臓が馬鹿みたいに早く動きすぎて、過剰供給された血液が噴き出すんじゃないかと気が気でない。その前に頭の血管がイカれそうな気もしないでもないが、なんでこんな目に遭ってるんだろう厄日か今日は。
 いつもなら翻弄するのはこちらの方で、いいように遊んでからかって怒らせて、そして殴られるのが常なのに。不意打ちの反撃は予測不能で、無意識であるだけにどうしようもなくやられっぱなし。お得意の話術も流し目も、何の役にも立たず敗れ去るのみ。元々裏のない好意は苦手なのに、この上全幅の信頼を寄せられたりしたら手も足も出せるわけがない。
(ズルイ。この笑顔は、絶対、狡いだろ……)
 相変わらず幸せそうに、ほわりと笑んで微睡む彼女。今は解かれた髪をさらり、掬えば濡羽色の輝きが指先にしっとりと纏いつく。
 多分襲われても文句は言えない状況だよなと思いはすれど、まあそんなことはできないわけで。
(俺さまともあろうものが……なっさけねーの)
 それでも、きっとこれくらいなら。
「許される、よな……?」
 囁いて、そっと額へと口づけた。
 
 
 
 それから多分、半時ほど後。
 ついうっかり、そのままの体勢で寝込んでしまっていた俺さまは、目を覚ましたしいなの札の餌食となった。傍らにいたのはコレットちゃん、呼びに来た彼女の気配で起きたというしいなの言に、もの凄く理不尽さを感じたのは気のせいではないと信じたい。
「ってーなぁもー……。コレットちゃんが来たら声かけられる前に起きられるくせに、なんで俺さまだったら起きねーのよ」
「知らないよ! どうせわざと気配消して忍び寄ったとかじゃないのかいっ」
「してねーっての! 大体それくらいで寝込み襲われるなんて熟睡しすぎだろうが」
 半分は本気で心配しての台詞に、しかし彼女は真面目な顔で首を傾げる。
「それなんだよねぇ……。そこまで熟睡するほど疲れてないはずなんだけど、なんで起きられなかったんだろ……」
「気づいてないだけで、実は結構疲れ溜まってるとか? 自覚ないってのはヤバいんじゃねぇの?」
「だからそんなことないんだって。このところ野宿が少なかったから、平和ボケしちまったのかねぇ」
 気を引き締めなくちゃね、とこぼすしいなに頷きながら、ふと違うことを思いつく。下らないことかもしれないが、それは平和ボケ説よりは信憑性がありそうに思えた。
「なあ、でもコレットちゃんにはすぐ気づいたんだろ?」
「ん? ああ、そうだねぇ」
「でもー、どう見てもコレットちゃんの方が俺さまより無害だよなー?」
「当たり前だろ! あんたも自分が有害だって自覚はあるんだね」
「比較対象としての話だっつーの。てことはつまりー、しいなにとって俺さまは警戒対象外! ってコトなんじゃねぇ?」
 警戒心の強い動物でも、生活を共にする群れの住人ならば側で眠ることを恐れない。いかにも無害そうな少女より、下心満載の男の方が近づくのを許されているのなら。
「それなら起きられなくても納得だよなーなーんて! 俺さまってば意外といいトコ突いてんじゃない、どーよ?」
 当然、本人は真っ赤になって否定するだろうと思ったら。
「………………」
 表情がすっぽり抜け落ちたような、ぽかんとした顔でこちらを見ていた。あらら、これはもしかして。
「なに、しいな図星? マジで? だったら俺さまちょー嬉しいんだけど」
「……あ、いや違うよ! そんなんじゃないったら! あんたなんか最大限警戒するべき相手の最高峰じゃないかっ!」
「わーい、ハニー聞いてくれよー! 俺さましいなの身内認定貰っちゃった~」
「ちょ、ちょっと待ちなってば! 違うに決まってるだろー!!」

 眠る彼女の隣は、限定一名さまの私的空間。そこに進入する為のパスポートは、どうやらもう入手してしまっていたらしい。理不尽と感じた扱いも、そう思えばどこか誇らしく嬉しいもので。
「また今度添い寝しに行ってやろうかー?」
「絶っ対お断りだよ!!」
 当分、お楽しみは絶えない予感。

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