Stand by me

 次の休みはいつだっけと、考えながら目の前のカレンダーをひたすら睨む。
 そんなことをしても休みが増えたりしないのは勿論承知しているが、そうでもしなければどうにも気持ちが収まらなかった。ちらとその横に目をやれば、そこには俺さまを待つ白くて薄くてひらひらしたハニーたちが大量にひしめきあっている。ついうっかり深い溜息を漏らしたら、それが引き金でもあったかのように逃げ出したい思いがむくむくと湧き出してきた。その衝動に従うか否か、短い逡巡の後に決めた答えは。


「……で、仕事全部放り出して会いに来たって?」
「だぁって、しょーがないじゃないのよ。もうホント無理だったんだもん、俺さま限界」
「一体何がしょうがないんだか……。まさかとは思うけど、期限が今日までの分があるかくらいは確認したんだろうね?」
 こちらに背を向けて机に向かったまま、忙しなく手を動かしながら答えたしいなの声は、顔を見るまでもなく呆れているのが窺える。折角遠路はるばる会いに来た、最愛の恋人への対応としては非常に冷たいことこの上ない。
「しーらない。だってもう見るのもヤだったんだもん」
 わざと子供染みた言い方をしたが、実際のところは心配する必要は恐らくない。今日追加された書類は確かにまだ触れてもいないが、昨日までの分は一応ざっと目は通した。届いたその日のうちに処理しなければならないほど急を要すなら、そもそも届けられた時にその旨を伝えられているはずだから、そうでないことはつまり、少なくとも一日の猶予くらいはあるわけで。
「知らないって、あんたねぇ。子供じゃないんだからそんなわがまま言ってどうするのさ」
 やっと肩越しにちらり、振り向いてこちらを見てくれた彼女はやはりというかなんというか、お馴染みの呆れ顔で溜息ひとつ。苦言を呈されるのは勿論覚悟してきたけれど、それでもこうドライに扱われると素直に反省する気にもなれない。
「なーんか、しいなってばつめたーい……」
 直接会って顔を見たのは、もう一月も前になるだろうか。それも出先でほんの数分、近況を報告し合った程度。更にその前はといえば、まるまる二ヶ月も経っている。仕事に忙殺されていれば他のことを考える余裕などないとよく言うが、作業そのものの大半は署名と押印だけの簡単な代物であるだけに、どうしても合間合間に思い出した。況してや相手にしているその書類に、全権大使である彼女の名前を見つけてしまったりしたら。
「もうどんだけ会ってないと思ってんのよ。それなのにしいなは平気なんだ? 俺さまがいなくても別になんにも気にならないし、会いたくて飛んできたって言われても喜ぶでもなく仕事に集中できちゃうんだ、さすがご立派な頭領さまは違うよなぁ」
 捌け口を失った苛立ちが、つい言葉になって滑り出る。そうじゃないと言ってほしい、自分だって会いたかったのだと示してほしいと、そう思ったのは嘘ではない。けれど決して、こんなにも嫌みだらけの皮肉を言いかったわけではないのに。
 普段なら言い過ぎたと取り消して、すぐに謝ってしまえばそれでよかった。でもそうするには今の心は少々ささくれすぎていて、だからそれ以上言えずに黙り込む。見つめていた背中がぴくりと動き、それから筆を持つ手がふっと止まった。数秒の間の後に筆が置かれ、広げられていた書類が無造作に脇へと押しやられる。少し俯いた彼女は相変わらず背を向けたまま、暫し沈黙が場を支配した。
「……あたしが」
 やがて静寂を破ったのは、低く抑えた固い声。
「本当に平気だって、何も気にしてないって……本気でそう思ってるのかい、あんたは」
 即座に答えられなかったのは、その声に覚えのある震えを感じたから。それは涙もろいくせに強がりの彼女が、泣きそうなのを必死に堪えている時の何よりの証。
「だったらもうあたしは――」
 言いかけた言葉には構わずに、そう遠くはない距離を一気に詰めた。近くなった背に向けて、まっすぐに両の手を差し伸ばす。
「ごめん」
「……っ!」
「八つ当たりして、悪かった」
 おまえだって忙しいのにな、と。
 腕の中にすっぽり納めた体を抱き締めて、その項の辺りに額を押し当て懺悔するように囁いた。腰に回している腕に、そっと触れてきたその手が震えていたのはきっと気のせいではなかったはずだ。

 もう一度ごめんと呟いて、それから泣くなよとつけ足した。
 泣いてないよと言った途端、温かい雫が手の甲にぽとりと滴り落ちる。ほら泣いてると笑ったら、『うるさい』と涙声で言われてがつんと拳で殴られて。それから『馬鹿っ』と罵るおまけがついて、それでも放さずにいたら本当に泣かれてちょっとどころでなく焦ったけれど。
 実はこっちも少しだけ泣きそうだったなんてことを、まさか知られるわけにはいかないから。この腕はまだ当分、放せない。

 

睦月かほる様より:世界再生後に忙しい中しいなに会いに行くゼロス

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