200ガルド分の時間をください

 お日様が随分と西に傾いて、辺りが綺麗な茜色に染まり始めた頃。
「すっかり長居してしまったね。名残惜しいけれど、そろそろお暇することにしよう」
 残り少なかったカップの中身を飲み干して、そう言った彼はもの柔らかな所作で椅子を立った。その横顔に窓からの日差しが差し込んでいて、それがあまりにも綺麗だったからつい見とれてしまった後ではっと気づく。
「リチャード、もう帰っちゃうの?」
「うん。もう少し話していたいけど、そろそろ船の出る時間だからね」
「そっか……」
 彼の今日の訪問はお忍びで、だから護衛の人は誰もいない。ごく普通に港の定期船に乗って、亀車も使わずにラントまでひとりで歩いて来たらしい。それを聞いたアスベルは驚いていたけれど、本人は気楽でいいよと笑っていた。でもそんな気楽な道程だからこそ、船に乗れなかったらバロニアまで帰れなくなってしまう。
「リチャードがお城に帰らなかったら、みんな心配しちゃうもんね」
「そうだね。デールは行き先を知っているから、大騒ぎにはならないだろうけど」
 でも僕とアスベルは確実に怒られるなと、苦笑するのを見てそれは大変だねと答えた。多分そうなってもリチャードはあまり気にしないんだろうけど、アスベルの方はきっと大慌てで平謝りするに違いない。
「……わたし、港まで一緒に行ってもいい?」
 戸口までついて歩いたところで、控えめにお伺いを立ててみた。だめと言われても街の出口までは行くつもりだったけど、それだけじゃなんだか寂しかった。
「見送ってくれるのかい?」
「うん。いいかな?」
「勿論。嬉しいよ」
 すぐに返された優しい笑顔に、よかったと安堵して差し出された手を取った。

「この辺りもすっかり平和になったね」
「最近は暴星魔物も全然見ないよ。リチャードが頑張ったおかげだね」
「……そうかな。ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
 夕暮れの道を、二人並んで歩く。わたしの右手とリチャードの左手は、ラントからずっと繋いだままだ。
「王様のお仕事はまだ忙しい?」
「随分落ち着いてきたとは思うよ。だからこそ、こうして遊びにも来られる」
「そっか。そうだよね」
 話の種は尽きない。時間にはそう余裕があるわけでもないのに、歩みのペースは上がらなかった。他に行く人もない静かな街道に、二人分の影だけが長く伸びている。
「……ついたね」
「ああ。間に合ったみたいだね」
 元々そう遠い距離ではないから、すぐに港が見えてきた。バロニアへの最終便が出る間際だから、船の周りには少なくない人が集まっている。出港時刻はもう、間もなくだ。
「ソフィ、わざわざ来てくれてありがとう」
 そろそろ行くよと穏やかに言われて、うんわかった、と答えるつもりだった。そしてまた来てね、わたしも会いに行くからねと。なのに。
「……ソフィ?」
 不思議そうに首を傾げられるのも当然だ。だってわたしは、握っていたその手を離さなかったから。離してばいばいと振ってみせるはずだったのに、それがいつも通りなのに、何故か逆にぎゅっと強く握り締めてしまった。当然、捕まえられた形のリチャードは離れられなくなる。
「ソフィ、どうかしたのかい?」
「……ううん、なんでもないの」
 もう一度訊かれて、やっと離した。心配そうに目を瞬く彼に、無言のままぶんぶんと首を振ってみせる。
(この船……)
 何度も乗ったことがあるから知っている。これはラントからバロニアへ向かう最終便で、バロニア港でまた人と荷物を沢山乗せる。そしてラントへ帰ってくる。それがバロニアからラントへの今日の最終便。つまり――これに乗っても、まだラントへは帰ってこられるのだ。
(いっしょに、って言ったら困るかな)
 まだ寂しい。離れたくない。一緒にいたい。
 でもそれはリチャードにはすごく迷惑なことなんじゃないだろうか。そう考えたらとても怖くなって、でもどうしてもまたねって言えなかった。そうやって黙って迷っているうちに、出港を知らせる汽笛が鳴る。
「あのねっ、リチャード……!」
 港中に響くその音に、かき消されず目の前の人に届くように。
 やっと心を決めたわたしは、必死の思いで言葉を紡いだ。

 

200ガルド=バロニア・ラント間の船代(片道分)。

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