君の瞳に想うこと

「リチャード、どうしたんだその目!」
 朝起きて宿の部屋を出て、階下のロビーに下りた途端そんな言葉が聞こえてきた。
「ああ、これかい? 大したことはないと思うんだけど……」
「そんなはずないだろ、真っ赤じゃないか。痛むか?」
「少しはね。でも放っておけばすぐに治るよ」
 心配そうなアスベルの声と、反対に落ち着いた様子のリチャードの声。いつもならすぐに駆け寄って、どうしたのと輪に入るところだった。でも今は、それが何故だかできなかった。両足が地に縫い止められたように一歩も動かず、声を上げることもできない。俯いた顔を上げることすらままならず、まだわたしには気づいていないらしい二人の方を、見ることさえも難しかった。
「ううん、でもこんなに赤くなってるんじゃ……」
「大丈夫だよ。まったく、アスベルは心配性だな」
 二人の会話は相変わらず和やかで、それなのにわけもなく胸が詰まって息が苦しい。どうして、と自身に問いかけてみれば、頭に浮かぶのはあるひとつの情景だった。半年前、心ならずも対立し続けた人の姿。血の色にも似た、赤い瞳。幼い頃見知った穏やかな茶色とは明らかに異質な、禍々しい光の宿る目が冷たく強くわたしを見据えていた。
「あれ、ソフィ。そんなところで何してるんだ」
 不意に呼びかけたのはアスベルだった。反射的にびくん、と体が竦む。返事をしなくちゃと思ったけれど、思うだけでやはり声は出なかった。黙ったまま動かないわたしを不審に思ったのだろう、二人分の足音が近づいてくる。
「ソフィ、どうしたんだい? 朝から何かあったのかな」
 少し高い位置から降ってきたのはリチャードの声。その響きはあの頃とは似ても似つかない優しさで、ちゃんと名前を呼んでくれた。遠い昔に与えられた、無機質な個体名などではなく。
「……ソフィ?」
 もう一度。呼ばれてやっと、恐る恐る顔を上げてみた。ちょうど目の前の位置にはリチャード、そのすぐ隣にはアスベルがいる。不思議そうに首を傾げている二人には、変わったところなんて何もなかった。何も。リチャードの目は左右どちらも同じ深い茶色で、アスベルのは左だけが本来の青と違う鮮やかな紫だ。そこにラムダがいる証拠。今はもう消す必要のなくなった、かつての仇敵。
「……あかく、ない」
「え?」
「さっき言ってた。リチャード、目が赤いって……でも、赤くない」
「ああ、それはね」
 よく見て御覧と促され、ほらと指し示す手に従い背伸びして見たのは右の目だった。リチャードも少し屈んでくれて、近くなったその目は――。
「あ、赤い」
「うん。赤いだろう?」
 柔らかく光る茶色の周り、つまり白目の部分。それが充血して赤くなっていた。ちょっと寝不足で、というにはだいぶひどい。しかもそうなっているのは右側だけで、左目は綺麗な白のままだった。
「寝ている間に……もしかしたら起きて寝ぼけていたのかもしれないけど、とにかく擦ってしまったらしくてね。起きたらこんな有様だったんだ」
 参ったよと笑うリチャードは、わたしのよく知っているいつものリチャードだった。わたしをプロトス1とは呼ばない、死ねとも消えろとも言ったりしない、柔らかな笑顔の素敵なともだち。
「しばらく触らないでいれば治るから、何も心配することはないんだよ」
「でもリチャード、薬とか要らないのか? それかシェリアに聞いてみるとか」
「アスベル、だからそれはいいって」
 心配そうに覗き込むアスベルを躱しながら、笑うリチャードにそっと手を伸ばす。でもどこに触れたらいいんだろうと、迷った瞬間にぱっとその手を取られた。一回り大きな手のひらに、わたしの手がそっと包み込まれる。
「大丈夫。触れるよ」
「……うん!」
 穏やかな笑顔と握られた手が、とてもとても温かかった。それを離したくなかったから、わたしもぎゅっと握り返す。
「なんだよ、二人してにこにこして……」
 仲間はずれにされたアスベルがちょっと拗ねた顔をしたけれど、それでも握り合う手は離さなかった。リチャードと顔を見合わせてくすりと笑い、示し合わせたように空いた手を出す。
「アスベルも一緒」
「うん、一緒にね」
「ラムダも!」
「え、ええっ? なんだよ急に……!」
 強引にアスベルの手を捕まえて、慌てるのも構わずしっかり握る。リチャードとわたしでそれぞれ片方ずつ。そうしてぶんぶんと上下に振って、もう一度目を見てまた笑った。

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