叶わないことを知っているから、この気持ちに名前なんて

「じゃあまたね、リチャード!」
「ああ、気をつけて帰るんだよ」
 出港時間も間近い定期船に、ぱたぱたと駆けていき乗り込む後ろ姿を桟橋で眺める。やがてタラップが外され始め、出港の合図が港に響いた。なんとなく去りかねてその場に立ち尽くすうち、甲板に現れた人影が手摺りのぎりぎりまで身を乗り出して大きく手を振る。
「リチャード、今日はありがとう。またお手紙書くからね!」
 声を限りに、というほどではないものの、距離を考えれば十分以上に大きな声量で呼びかけられて目を丸くした。次いでふっと破顔して、右手を上げこちらも振り返してみせる。一応お忍びのつもりだったのに、これでは周りに気づかれないわけがない。でも嬉しそうに笑うその顔を見たら、ただ苦笑するより他になかった。妙な噂が立つのは困るけれど、だからといって彼女を無下に扱うなんてとてもできない。
 少しずつ離れていく船の大きさが、豆粒ほどになってからやっと水面に背を向けた。そして桟橋から港へと歩き出す前に、帽子を目深にかぶり直す。変装とも呼べない、謂わば気休めの品はさほどの効果を望めないけれど、それでもないよりはましだろう。
「……寄り道をする時間はなさそうだな」
 もういくらもしないうちに、傾きかけた日が沈む。たまの息抜きだからと出奔を見逃してくれているデールも、夕食の時間までに戻らなければさすがに騒ぎ出すだろう。本当はもう少しひとりでいたい気分だったけれど、軽く頭を振ってその考えを追い出した。

 温暖な気候が特徴のウィンドルでは、真夏でも割合過ごしやすい反面春先の朝夕はまだ肌寒い。どちらかというと薄着の彼女は、水上を渡る風に当たって寒い思いをしていないだろうか。ラントまでの航路は時間も距離もごく短いから、風邪を引くほどのことはないだろうけど。
 長く長く伸びる自身の影をぼんやり見ながら、浮かぶのは彼女のことばかり。気がつけばもう城門の目の前まで来ていて、顔を上げた途端馴染みの門番と目が合った。
「お帰りなさいませ」
「……ああ、ただいま」
 即座に姿勢を正し敬礼する相手に、また苦笑して挨拶を返す。やっぱりばれているんだなと、小さく肩を竦めて門を潜った。広々とした前庭の半ば辺りで、聳え立つ白亜の城をふと見上げる。
 ――まるで巨大な鳥籠のようだと、幼い頃はよく思っていたっけ。
 今またそれを思い出すことがあるなんて、ほんの少し前は思ってもみなかった。当時と今とでは理由がまるで違うから、闇雲に逃げ出したいなどとは思わないけれども。
「僕がここにいる限り、君とは……」
 呟きかけて口を噤んだ。嘆いても仕方のないことだから、言うまいと決めたのは自分自身だ。曖昧な感情と微妙な距離を、明確にしてしまったらきっと後悔する。ならばずっとこのままで、そう願うからこそ形にはできない。
 名前の付けられない想いを抱いて、鳥は大人しく籠へ帰るとしよう。

 

たまには悲恋っぽいものもどうかなと。

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