honey so sweet

 急な出来事に驚いて、気がついたときには地面に転がっていた。首筋に細い腕が二本ぎゅっと巻きついていて、体の上には柔らかな温もりと重みが乗っている。衝撃に見開いていた視界の中で、鮮やかな薄紫の頭がゆるりと動いた。伏せていた面が上げられて、はにかんだような笑顔が覗く。
「……ソフィ」
 つられるように微笑みながら、名を呼ぶとその笑顔が一層輝きを増した。そしてそのまま、また肩口に顔を埋めるような形で抱きつかれる。そうすると彼女の長い髪がさらりと落ちてきて、その感触が少しくすぐったかった。
「どうしたんだい、急に飛びついたりして」
 驚いたよと言葉を添えると、ごめんなさいと素直に謝られた。決して咎め立てする気はなかったから、ううんいいよと笑って答える。確かに名前を呼ばれて振り向きざま、勢いよく抱きついて来られたのは予想外だった。幸い抱き止めることはできたものの、支えきれず背後に倒れた結果、二人揃ってこうなっている。
「だって、リチャードがいたから」
「……いたから?」
「嬉しかったの。だめだった?」
 甘えるような口調と上目遣いで、そんなことを言われたら。だめだなんてとても言えるわけがなく、苦笑して桜色の頬にそっと触れた。
「いいや。だめじゃないよ」
 ここが人目のある街中や城内だったなら、不敬だと咎める者もいたかもしれない。でもラント裏山の花畑には、そんな無粋な者は誰もいなかった。どれだけ彼女を甘やかしても、どこからも文句は出てこない。
「君に会えたのも久しぶりだものね」
「うん。だから会いたかったの。来てくれて嬉しい」
 言いながら可憐に笑うのを、目を細めて見守り抱き寄せる。精一杯の優しさでその背を撫でて、久々に感じるぬくもりを堪能した。彼女には香水なんてつける習慣はないだろうに、何故だかほんのりと甘い香りがする。花の香り、とは少し違った。もっとこう、食欲をそそるような種類の――そう、焼きたての甘いお菓子の香りだ。
「いい匂いがするね」
 ちょうどいい位置にある髪をひと掬い、指先に絡めて嗅いでみる。なんのお菓子かまではわからないが、仄かにりんごの香が混じっている気がした。
「シェリアさんがアップルパイでも焼いていたのかい?」
「ううん、今日はタルトタタンなの。わたしもお手伝いしてたんだよ」
「なるほど。それはきっと美味しいだろうね」
 りんごはラントの特産品だから、この街の女性は皆りんごを使った料理が上手い。シェリアさんも勿論例外ではなく、最近はソフィもそれに倣って、着々と腕を上げているようだ。
「リチャードも一緒に食べていってね」
「ありがとう。是非お邪魔させてもらうよ」
 悩む時間もその必要もなく、すぐに頷くとまたぎゅっと抱きつかれた。応じるようにこちらも抱き返しながら、そういうことなら、と口を開く。
「ソフィ、そろそろ離れないと」
「どうして?」
「だってそうしないと起き上がれないよ」
 いつまでもこうして転がっていたら、領主邸に向かうことはできない。
「そっか。そうだよね」
「うん。そうだよ」
 じゃあ離れなきゃいけないね、と。言いはしても彼女は動こうとしない。それどころか更に身を寄せてきて、ぴったりと僕に寄り添った。その仕草があまりに愛おしかったものだから、ついまた抱く腕に力を込めてしまう。
「起きないのかい?」
 くすくすと笑いながら言う。
 決して人のことを言えた筋合いではないのに、さも彼女だけが原因であるかのように。
「起きるよ。でも――」
 もうちょっとだけ。
 囁くように告げられた、可愛い我が儘を拒否する気にはなれなかった。

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