焦げ付く前に召し上がれ

 リチャードは人気者だ。本人はラムダの影響で引き起こした事件のことを今でも気にしているけれど、もうそんなことは全然関係ないくらいに、いろんな国の人からすごく好かれていて人気がある。
 ――中でもそう、若い女の人からは特に。

「リチャード陛下、ここにサインして頂けませんか?」
「お願いします、せめて握手だけでも……!」
 数人の女の人に囲まれたリチャードは、先ほどからずっと穏やかに、でも半分困ったような笑顔で戸惑い気味に対応していた。いつも堂々としていて、人前に立つのに慣れている彼にしては珍しい。サインはどうにかお断りしたようだったけど、押し切られた様子で手を取られ、仕方なく握手だけはしてあげたらしい。遠目に見てもわかるほど、ぎゅうっと力強く握って勢いよく上下にぶんぶん振るそれは、握手というには随分と熱烈なものだったけれども。
「ソフィ、待たせてしまったね。すまない」
「……ううん、大丈夫」
 女の人達にさよならと手を振って、こちらにやってきたリチャードは相変わらず困ったように苦笑していた。取り繕うべき相手がいなくなったせいか、困り顔の方がさっきよりちょっと増えている。
「それじゃ行こうか」
 促されてうん、と頷いた。けれどすぐに思い直して、やっぱりふるふると首を横に振る。そのままじっと目を見つめたら、面食らった様子でえっ、と呟かれた。数秒間の沈黙の後、形の良い眉が顰められ、「ソフィ」と小さく名前を呼ばれる。
「その……何か、気に障ることでもしてしまったかい?」
 心配そうな声音での問いかけに、そんなことないよと答えを返した。ならどうしてと言いたげな、困惑の色が瞳に宿る。わたしは少し考えてから、むう、と口をへの字に曲げてみせた。それを見たリチャードは、ますます困り果てた表情になる。
(……どうしよう)
 別にリチャードを困らせたいわけじゃなかった。ただなんとなく、心の中がもやもやして、自分でもどうしたらいいのかわからない。一体何が気に入らないのか、黙ったままぐるぐると考えた。そして。
「手」
 唐突に、ふと思いついてその一言を発した。
「……え?」
 当然のことながら、それだけではこちらの意図は伝わらなかった。焦ったように目を瞬くばかりの彼に、
「手。出して」
 改めて再度繰り返して、もう少し具体的に要求を告げた。
「え、ああ……。これでいいかい?」
 急な申し出に驚きつつ、それでも頷いた彼は躊躇わず右手を差し出してくれる。手袋に包まれたその手を凝視して、穴が空くくらいにじいっと睨んだ。わたしのより一回り大きな手。傷つけ合ったこともあるけれど、今はいつだって優しく触れてくれる温かい手だ。
「ええと、ソフィ……?」
 数十秒も経っただろうか。その間ずっと無言でいたわたしに、さすがにリチャードも痺れを切らしたらしい。それでもおずおずと控えめにかけられた声は、常にはない行動への対処に困っていることが窺える。
(わたしのせいだよね)
 わたしがわがままを言うから困っている。でもだからきっと今リチャードは、わたしのことだけを考えている、はず。そう思ったら何故か、少しだけ気分が良くなった。
 ふう、とひとつ溜息をつく。そして未だ目の前に差し出されたままの手を両手で包んだ。それを力いっぱいぎゅっと握る。
「リチャードはずるい」
「え、ええっ? ずるいって、一体何が……?」
「ずるいよ」
 だって、リチャードはあんなに沢山の人に好かれてる。
「……なんだか、わたしばっかり好きみたいで悔しい」
 蚊の鳴くような声で呟いた。もしかしたら少し痛いかもしれないくらい、きつくきつく手を握り締める。そうしてじんわりと伝わるぬくもりに、なんだか胸の奥がざわざわした。
(――独り占めしたい、なんて)
 そんなことを思うわたしは悪い子だろうか。 

 

ソフィちゃんだってたまには餅を焼いたっていいと思うの。

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