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41.恋すてふ我が名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思ひそめしか

 ぱたん、と。扉の閉まる音を背後に聞いて、足取り軽くロビーを進む。
「おはようございます、神子さま」
 カウンターの受付嬢が、目が合うなり笑顔で挨拶してくれる。ここ数日ずっと通い詰めているものだから、もうすっかり顔馴染みになってしまったようだ。
「やっと帰ってきましたよ」
「え。マジで!?」
「はい、昨日の夜に着いたそうです。今日まではまだお休みだから、ここには来ないみたいですけどね」
 毎日飽きもせず同じことばかり聞いていたせいか、こちらから問うまでもなく欲しい情報を教えてくれた。たったそれだけの些末な変化で、陰気臭い研究所のロビーもどこか輝いて見えるのだから、我ながら現金なものだと思う。でもそれだけ待ちかねていたんだから仕方ない。
「それじゃ、宿舎の方に顔出してみるかなー。ありがとね、ハニー♥」
 本来嫌いなはずのハーフエルフに、作り笑顔でなく笑いかけられたのも浮かれた気分の為せる業だろう。ひらりと軽く手を振って、踵を返しかけたところにくすくすと小さく笑う声が届く。どうしたのかと向き直れば、楽しげな笑顔の受付嬢がこう言った。
「神子さまって、しいなのこと大好きなんですね」
「…………え、えぇっ!?」
 完全無欠な不意打ちに、日頃人前では決して崩さないはずのポーカーフェイスも吹き飛んだ。だって彼女とはここ何日か、この場所でしいなの不在を確認していただけの間柄。毎日会えば顔は覚えても不思議はないが、交わした会話といえば『もう帰ってきたかな』、『いいえまだです』くらいのもので、言われる度にあからさまに失望落胆してみせたなんてこともない。
「ね、ねぇハニー、俺さまなんで君がそう思ったのか教えて欲しいなー、なんて思うんだけど……」
 誰憚ることなく、おおっぴらに公道で口説いていたのは事実だけれど。あの頃はまだ目新しいものへの興味の方が大きくて、靡かない相手だからこそ落とそうと躍起になっていただけだった。それも結局、惚れさせたというよりは呆れ果てて譲歩してくれたというのが正しい形だったのだが。
 経緯はどうあれ、今現在はどうかと言えば。確かにしいなに対して抱く思いは、恋愛感情と呼ばれるものに違いない。それも簡単に切り捨てられる遊び相手ではなく、油断すれば身動きも取れなくなるだろう厄介なもの。だからこそ、そんな素振りは誰にも見せず、今までのハニー達と同じように扱っていたはずなのに。
「研究所の中では、結構噂になってますよ。神子さまもどうやら今度は本気らしいって」
「いやいやいやちょっと待って、噂ってソレどーゆーコトよ!?まさかしいながあることないこと喋りまくってるとかじゃないよな……?」
 しいながそう口が軽い人間だとは思わないが、可能性としてはゼロではない。女の子は恋愛話が何より好きな生き物だし、悩み事のひとつもあれば親しい友人に打ち明けることは珍しくもない。しかしそれは杞憂であったらしく、すぐに否定の返事があった。
「しいなは何も言ってませんよ。でも態度を見ていればわかります」
 それに、と。言ってから一度言葉を切って、内緒話の囁き声で。
「研究所の敷地内で、神子さまを見かけた者が沢山いるんです。誰に会いに来ていらっしゃるのか、自然とわかっちゃうものですよ」
 ああなるほどね、と納得しつつ。ハーフエルフばかりのこの場所を、訪れることそのものが怪しい行動だったのだと、今更気付く己の迂闊さを歯痒く思う。
「あー……それって、外部の人間には……」
「御心配は無用です。私達はここから出られませんから」
 それは言葉通りの確かな事実で、だからある種頼もしくさえもあったのだけど。
 いかにも応援してますと言いたげな、その笑顔がなんだか少し恐ろしかった。

 

42.契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波こさじとは

 二人掛けのソファに浅く腰掛けて、ローテーブルに肘をつきその上に顎を載せた気怠い体勢で眺めること一時間と二十分余り。その間ずっと同じ部屋にいるのに、手を伸ばせば触れられるほど近くにいるのに、しいなはこちらを見もしない。以前のように山なす書類に囲まれていればそれも仕方ない話だけれど、今はそんな無粋なものはここにはない。だというのに。
「…………はぁ」
 我慢していたはずの溜息が、知らず口をついて出る。しんと静まり返った部屋の中に、それは思いの外大きく響いてしまった。耳聡い彼女は当然のように聞きつけて、こちらに苦笑混じりの顔を向ける。
「どうしたってんだい、そんな辛気臭い顔しちまってサ」
「……いーえ、別にどうもしませんとも」
 他に返すべき言葉もない。投げやりな返答に勿論納得はしなかったのだろうが、ただくすりと笑みを浮かべただけで、すぐに視線を外してしまう。それこそが面白くないのだが、多分気付いてないんだろうな。
「…………」
 このところ碌に触れられず眺めるばかりの恋人は、今日もこの俺さまではなく他の男を愛しげに見つめて微笑んでいる。その献身ぶりといったらもう、妬けるだのなんだのというレベルの話ではない。不毛なこととわかってはいる、けれど恨めしく思うなと言われたところでそう簡単に割り切れないのだから仕方ない。
「もう一生心変わりはしないって、約束したと思ったんだけどー……」
 思っただけ、言うつもりはなかったはずの繰り言が、つい声に出てしまったのはいい加減堪りかねた潜在意識の仕業だろうか。溜息ひとつでも聞き逃さない静寂には、いかに小さな呟きといえども紛れてくれる余地はない。従ってぱっと顔を上げたしいなと目が合うなり、まん丸く見開かれた瞳が胡乱げに眇められたのも道理なわけで。
「……あのねぇ」
「あーあー、わかってますよ。別に嫉妬とかそーゆーんじゃないから、俺さまのことは気にしないでどーぞのんびり寛いでてちょーだい」
 怒られる前にと、弁解にもならない言い訳を矢継ぎ早に並べて両の手を振る。その成果ではないのだろうが、予想した小言はなかった代わり、深々と呆れたような溜息だけが残された。
「これが、心変わりだって?」
「いやだから、それは言葉のアヤというかなんとゆーか」
「……言葉の綾、ねぇ」
 しいなはまだ何か言いたげな言葉を切って、その腕に大事そうに抱えたものをそっと揺すった。切れ長の目がふわりと柔らかく緩み、穏やかな笑顔が浮かび上がる。
「他でもないあんたの子なんだけどね?」
 言いながら僅かに腕を差し出すことで、それまで隠れていた顔がこちらにも見えるようになった。母親の手に守られて、なんの不安もないのだろう。幸せそうな表情で、眠っている姿は無条件に場を和ませるだけの力がある。
「そりゃ勿論そーなんだけどー……」
 確かに我が子は可愛いと思う、それは動かしようもない純然たる事実なのだし、そもそも否定するつもりなど毛頭ないのだ。しかしだからといって、この状況を喜んで受け入れられるかというとそうはいかないのがまたどうしようもない現実であって。
「全く、しょうがない奴だねぇ。構ってもらえなくてふて腐れるなんて、あんたの方がよっぽど子供みたいじゃないか」
 堪えきれない様子で小さく笑い、子供を落とさないように膝に乗せてから右手でしっかりと抱き直す。わざわざそうして空けた左手が、こちらへと伸びてきてくしゃりと髪を撫でられた。
「ほったらかしちまってて悪いね」
 俺さままでガキ扱いするなと言おうと思ったのに。髪を撫でた手がそのまま頬に降りてきて、まるっきり慈愛そのもののような優しさで笑うから。それ以上なんてもう、何も言えない。
「もうちょっとだけ待っとくれ。そしたらきっと、三人で一緒に過ごせるようになるからサ」
 詰まってしまった言葉の代わり、二人まとめて力の限りに抱きしめたいと思うけれど。
 まだ小さくて柔らかくてあたたかくて、他の何ものにも代えがたい二人の愛の結晶を、押し潰してしまうわけにはいかないから。もう暫くは、大人らしくぐっと堪えることにした。

 

43.逢ひ見ての後の心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり

 今誰とどこにいて、何をして過ごしているんだろう。
 ふとした瞬間、思い浮かぶのはそのことばかり。任務中は無論、余計なことを考えている余裕はない。雑用に追われているときだってそう。ただその合間合間の空白の時間、つい思いを馳せてしまうのが、厭わしくもあり苦しくもある。
(癪に障るよ、全く)
 頭の中の想像は、紛い物なだけに変幻自在。令嬢ばかりの取り巻き達に囲まれてへらへら笑っているかと思えば、山なす書類に埋もれかけながら、疲れた顔をしていたり。暢気に遊び歩いていればふつふつと怒りが湧いてくるし、根を詰めすぎて寝込んでいる所なんてうっかり描いてしまおうものなら、途端に心配で落ち着かなくなる。情けないことだと自覚はある、それでも気にせずにいられない。
(なんであんたなんかの為に、こんなに振り回されなきゃならないんだい)
 八つ当たりなのはわかっている。勝手に心配しているのはあたし、勝手に怒っているのもあたし。想像だけの勝手な言い分に、怒られてはあっちも困るだろう。だけど。
(これじゃ、片思いの方がまだ楽だったよ……)
 長い片恋に耐える間は、ただ苦しさだけを胸に仕舞い込んでいればよかった。忘れようとして忘れられず、諦めようとして諦めきれず、遠離ろうにも離れがたくてだけど側にも行けなくて。それはとても苦しかったけど、切なくて辛くて寂しかったけど、でもそれだけでしかなかったのだ。
 やっとやっと、すれ違い続けた思いを告げて、確かな絆を手に入れて。そうして『特別』になれたのに、会えない時間は不安ばかりを膨らませる。側に居られない不在の時間が、痛みとなって胸に巣くって、どうしよう、加速する衝動を止められない。

 元気にしてる?仕事頑張ってる?浮気なんかしたら承知しないよ、もう二度と許してやらないんだから。でもあんまり無理はするんじゃないよ、ちゃんとご飯食べて寝なきゃ駄目だよ。

 次々に浮かぶそんな思いを、綴り書き連ねて文にする。いちいち届けはしないけど、きちんと封をして文箱にしまえば、ほんの少し心は軽くなった。そうして書き溜めた当てのない手紙が、もう一体いくつあるだろうか。
(そろそろまとめて焼こうかねぇ)
 迂闊に置きっぱなしにしておいたら、いつか本人に探られそうで。そうなったら恥ずかしすぎて耐えられないから、その前に始末してしまわないと。
(……その前に、一度会いに行ってこようかな)
 顔を見て、少しだけ伝えて、安堵をもらって。渦巻く思いを昇華して、それからなら気兼ねなく消してしまえるから。うんそうしようと心に決めて、さて次の休みはと暦を繰った。

 
44.逢ふことの絶えてしなくばなかなかに 人をも身をも恨みざらまし

 目の前に、桃色のリボンが揺れている。ひらりひらり、歩みを進めるその度に、ふうわりと舞って緩く靡いて。
(目立つんだっつーの、そのひらひら)
 淡い藤色の細い背中に、あちこちに跳ねた漆黒の髪。割合地味な色合いの、その中に華やかな桃色はよく目立つ。それも最後尾にいることの多い自分にとっては、ついつい目で追ってしまう位置。
 隠密のくせに背後からの視線には気付かないのか、隣に並ぶ少年と話している後ろ姿は楽しげで、妙な疎外感を覚えてしまう。割って入るのは簡単なのに、そうできないのはこちらに屈託があるからだ。
(またおまえは、望み薄な恋しちゃってるワケね。ご苦労さん)
 今は人形のごとく無表情なまま、光る羽を羽ばたき飛ぶ少女。その少女を救うただその為に、遙か時空を越えてまで、見知らぬ異世界へとやってきた。滅亡に瀕した故郷を捨ててもと、言い切るほどの情熱で。
(嬉しそーな顔しちゃって、まー)
 可哀想だが、彼女の恋は実るまい。あんな強力なライバルがいたのでは、奥手な彼女に勝ち目はない。もうちょっとマシな相手を選べばいいのにと、気の毒に思う反面暗い喜悦を感じもする。ああ本当に、俺さまってば嫌なヤツ。
 いっそ近くにいなければ、こんなにもやきもきすることはないのだろうに。どうせ手に入らないものなのだから、せめて幸せになればいい。そう思ったのは真実なのに、不幸な結末を望んでしまう。自分に向けられない笑顔なら、曇ってしまえばいいのだと。
(たまにはこっちも向けっつーのよ)
 どうせそいつはおまえを見ないよ。意地悪く思ったのをまるで読んだかのように、タイミング良く彼女が振り向く。
「ゼロス?どうしたってのさ、なんか用かい?」
「……いーや、なんでも」
 邪気のない瞳を向けられて、それだけをどうにか口にした。そうかいと答えた彼女はそれきりまた前を向いてしまって、話の続きを始めてしまう、けれど。
 狙ったようなその行動が、今は恨めしくて堪らない。

 

45.哀れともいふべき人は思ほえで 身のいたづらになりぬべきかな

「さんじゅう、はちど、にぶ……」
 さっきまで咥えていた体温計の、目盛を切れ切れに読み上げる。力なく掠れた声を聞くまでもなく、具合が悪いのは承知していた。思った以上に熱が高い、これは間違いなく風邪だ。
 風邪薬はまだあったかなと、ぼやけた頭で考える。確か引き出しにしまってあったはず、でもそこまで行くには立ち上がって部屋を横切らねばならない。今それができるだろうかと少し考え、無理であろうと判断した。起き上がった途端、眩暈を起こして床に転がるのが関の山だ。
 今日は研究所には行けそうにない。本当は連絡を入れねばならないけれど、起き上がれないのではそれも不可能。誰かが気付いて様子を見に来てくれるまで、ここで大人しく寝ているしかない。
「……コリン」
 蚊の鳴くような声で呼び掛けると、すぐ側でぽんと音がする。現れたのは小さな親友、ふわふわした三本のしっぽが長い、人工精霊のコリンだ。
「しいな?具合悪いの、大丈夫?」
「だいじょう、ぶ……ちょっと、風邪ひいた、みたいだ」
 大したことはないよと笑って、柔らかい毛並みを撫でてやる。まだ心配そうな表情に、重ねて平気だと告げた。
「でも苦しそうだよ。コリン、誰か呼んでくる?」
「……ああ、そうだ。あいつ、に……」
 言われてふと思い付いて、伝言を頼もうと思ったけれど。
「ううん……。やっぱり、いいや」
 思い直して、諦めた。
 少し前までの自分なら、迷わず頼っていただろう。でも今はもう、きっと頼っては駄目なのだ。
「しいな?いいの?」
「……うん、いいんだ。ありがとね、コリン」
 ああ見えて面倒見の良い奴だから、きっと助けてくれるのだろう。頼られたものを切り捨てるなんてことはしない、だけどそれはただの同情でしかないのだろうから。そんなものに縋ってまでも、楽になろうとは思わない。

 たかが風邪、少々こじらせたって死ぬわけはない。そんなこと勿論わかっている。でももしも、このままあたしが死んでしまったら。
(あんたは、まだ可哀想だって思ってくれる……?)
 とてもそうとは思えない。
 このところ酷く移り気な恋人を、思い浮かべると涙が一筋、音もなく溢れて枕に落ちた。

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