舞い散る花と光の下で

 長かった冬が終わりを告げて、日差し穏やかな春がやってきた。
 少しずつ暖かさを増す日々の中、膨らみ始めた蕾と共に、約束のその日が近づいてくる。

「ねーしいな、桜咲いた?」
 今月に入って三度目の質問。今週ならば多分二回目、まだ鬱陶しいとは言われないはず。
「そろそろ咲き始めてきたってところかねぇ。まだ満開には間があるよ」
 腕を組み小首を傾げた思案顔で、恐らくは花の様子を思い浮かべて。答えたしいなもこちらの意図はわかっているようで、快く望む答えを教えてくれた。
「当分は天気もいいみたいだし、咲く前に雨にやられちまうってこともなさそうだよ」
「そっかそっか、そりゃよかった」
 一番の懸案事項がクリアになって、これで後はもう時を待つだけ。このところ入った仕事は片っ端から片づけて、それはもう周りが驚いて目を丸くするくらいに頑張った。おかげでいつも堆く書類の積み上がっている執務机は、すっきりさっぱり広々としている。そうして強引にもぎ取った長期休暇の終わる頃には、また見慣れた状態に逆戻りしているのだろうけど。
「でもいいのかい? そろそろ帰らなくて」
 普段この里に来る時は、大概日帰り、長くても三日程度の滞在が多い。けれど今回に限っては、いつまでと決められるものではないから。
「いーのいーの。ちゃんと咲くまで帰んないって、セバスチャンに言ってきたから」
「……セバスチャンだけに?」
「うん、だけに」
「あんたねぇ……」
 そりゃあセバスチャンはあんたの留守中のことは万事心得てるだろうけど、あんたがいなくて困るのはセバスチャンじゃなくて陛下とか教会関係者とか政治関係のお偉方だろうにそっちは一体どうしたってんだい、全くもうこんなことで無責任にもほどがあるだろ、あんたって奴はこれだから――。
「あーはいはいストップストップ。わかったから、しいなさんのありがたーい忠言はもう十分聞いて身に染みましたからー」
 放っておいたらいつまでも際限なく続きそうなお小言を、両手を突き出してなんとか制する。止められたしいなは少々むっとした顔をしたものの、それ以上言い募る気はなかったようで大人しく口を噤んでくれた。
「……無理に延ばすことないんだよ? 日付なんてあたしがちゃんと控えとくからさ、それで来られそうなら来たらいいし、無理ならまた近いうちに顔出すから」
 今度は心配そうな声色で、反応を窺うように見つめながら。申し出てくれた内容はきっと、仕事そのものの進捗ではなく、溜め込んだ超過分をオーバーワークでこなさねばならないこの身への気遣いなのだろう。案じてくれるのは嬉しかったが、しかしことはそういう問題ではないのだ。
「あのねー、馬鹿なこと言わないでちょーだいよ。誕生日なんだぜ? 当日に祝わなきゃ意味がないでしょーよ」
「でも、別に本当にその日に生まれたわけじゃないし……」
「なーによ、ソレ。本当に生まれた日じゃないから、多少遅れたって構わねーの? それじゃいちいち決める意味ないっつの」
 だからちゃんと祝ってから帰るの、と。言い切って文句は切り捨てて、伸ばした右手で彼女に触れる。漆黒の艶やかな髪をくしゃりと乱して、その頭をわしわしと心ゆくまで撫で回した。珍しく殴られなかったのは多分、照れていたのか喜んだのか。


 気温の変化とは面白いもので、たった一夜を境にがらりと、空気まで変わってしまったようだ。それまで冷え冷えとしていた明け方の空気がやや肌寒い程度になったのを皮切りに、やがて上った太陽の連れてきた陽気は、漸く春も闌けたと言わんばかりの暖かさ。この温度なら咲くのも早くなるかもねと、言ったしいなの言葉通り、その日は思ったより早く訪れた。


「んー、これぞ満開っつー感じだな」
 見渡す限りの白、白、白。これぞ正しく百花繚乱、いやこの場合は桜花繚乱とでも言えばいいのか。白と薄紅に彩られた視界を、時折ひらりと横切っていくものは、枝から零れた花のひとひら。
「そうだね。これなら文句のつけようもないね」
 おいでよ、こっちから見た方が綺麗なんだ。そう言って前に進み出たしいなの、長く靡く帯にも桜色。春とこの花とこの色とは、なるほど結びつけずにはいられない。
「ゼロス? 来ないのかい」
 立ち止まったままのこちらに気づいてか、藤色の背がゆるりと振り向く。雲ひとつない青天の下、満開の桜の大樹を背負って。穏やかに微笑むその姿は、いつか思い描いた光景そのもの。
「……ゼロス?」
 眩しさに目を細めて見つめたら、不思議そうに首を捻って瞬かれた。子供じみた仕草が可愛くて、愛おしくて矢も盾もたまらなくなって。
「わ、きゃあ……っ!?」
 駆け寄って力の限りに抱き締めたら、驚いて暴れてでもその後で、ちゃんと抱き返してくれたりして。やがて力の抜けた頭部が、こてんと肩に凭れてくる。
「なんだい、もう……ばかだねぇ」
 罵る言葉もどこか甘く。まるで夢の中にいるようで、でもちゃんと現実感はあるままで。
「そーだな、馬鹿かもしんねーな」
 それならそれで構わない。この幸せに触れられるなら、ちょっとくらい馬鹿になってもいい、でしょう?
 ざあ、と急に吹いた風が、咲ききった花弁を舞い上げる。世界が桜の色に染まって、心地良い光に包み込まれた。

「誕生日、おめでとう」

 君が生まれてきた奇跡に、感謝を。

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