春、桜の咲く頃

注意 若干の大人向け描写を含みます。

「ごちそーさまでした」
 軽く触れるだけの口づけを、柔らかな唇にひとつ落として囁いた。
 頂かれてしまった『御馳走』の方は、まだ返事をするどころではないらしく、無言のまま忙しなく酸素の補給に勤しんでいる。
「手作りケーキも美味かったけど、やっぱしいなの方がもっと甘いなー……いてっ」
「バカなこと、言ってんじゃないよ……っ!」
 途切れ途切れの掠れ声でも、しっかり抗議するのは忘れない。そんなところが彼女らしくて、この距離感が心地良かった。ぺちんと叩かれたその掌には、まだそれほどの力は戻っていない。従ってダメージは殆どないと言ってよく、逆に捕まえてにやりと笑う。
「だってホントのコトでしょー? 久々にたっぷりと、しいなちゃんのあまぁい声を味わえて俺さま満足」
 言うなりぎゅっと抱き込んで、滑らかな肌を堪能した。常よりも少し高めの体温が、共有した甘い時間の名残のよう。
「泊まるって言った途端にこれなんだから……。全くもう、あんたってヤツは」
「いーじゃないのよ、コレも含めてプレゼントってことで」
 呆れた口調で責められても、もうすっかり慣れてしまったから痛くもない。そもそも、部屋に誘われて着いてきた時点で文句は言えない、というか同意の上とみなされるのが普通だろう。毎度ささやかに抵抗してみせるのだって、嬉々として応じるわけにはいかない恥じらいからだと知っている。
 そのまま抱く腕を緩めずにいれば、やがて小さく吐息を漏らし、諦めたように力を抜いた。背中に指先だけで控えめに触れ、すり、と肩口に頬を寄せられる。そんな些細な仕草が愛しくて、より一層強く引き寄せた。
「ありがとな。今日、来てくれて」
 直接顔を見ていないから、珍しく素直な言葉を口にできた。我ながらちょっと驚くくらい、穏やかに落ち着いた声色で。
「……こんな時くらいしか、恋人らしいことしてやれないからね」
 少々面食らったのだろうか。一瞬の沈黙の後、くすりと笑って告げられた。その言葉に、抱き締めていた腕を緩めて顔を上げる。互いに忙しい身の上だから、それはその通りなのだが同意はできない。何故ならば。
「それ、ズルイ」
「へ? ずるいって、何がだい」
「それじゃ俺さまはどーなんの。俺さまはしいなに『恋人らしいコト』してやる機会がないじゃんか」
 彼女は自分の生まれた日を知らない。物心つく前に親に捨てられ、イガグリのじーさんに拾われて育った。本人はその辺りの事情はそれほど気にしていないようだが、こちらとしてはそうもいかない。
「あんたには、結構それっぽいことしてもらってるから十分だよ?」
「いやだから、ソレはソレ、コレはコレでしょーが。俺さまだって、おまえの誕生日祝ってやりたいって気持ちはあんのよ?」
 間近から見下ろす位置で目を合わせ、真剣そのものの態度で相対する。しいなはどうにも理解できないと言いたげに、ぱちくりと瞬きをするばかり。
「そう言われても、あたしの誕生日なんて正確なところはわかんないし……」
 言われずとも予想はついたから、これまでに直接訪ねたことはなかった。改めて本人の口から聞いて、やはりそうかと納得する。
「やっぱ、わかんないんだ? でも年はわかってんだよな、一応」
「そりゃあね。一歳になってなかったのは確からしいし、ミズホは数え年だから、正確な日がわからなくても問題なかったんだよ」
「あー、なるほどね……」
 特別に生まれた日を祝う習慣がないのなら、確かにあまり気にすることもないかもしれない。己の幼い頃と比べるのは色々と差異がありすぎるだろうが、それでもどこか不憫に思ってしまうのは、それが嬉しいかどうかは別としても、『誕生日は祝うもの』という感覚が染みついてしまっているせいだろうか。
 これはどう折り合いをつけるべきかと、一人考えながら手を伸ばす。手頃な位置に広がる黒髪を、ひと掬い取って指に絡めて、くるくると弄んでから手放した。ぱらり、散った漆黒の、白いシーツとの対比が美しい。
「年さえわかれば十分だと思ってたし、実の親に会いたいなんて考えたこともなかったけど……こういう時は、ちょっと会ってみたくなるねぇ」
 まあ捨てちまうくらいだから会っても覚えてないかもしれないけど、なんて。特に傷ついた風でもなく、からりと笑って言うものだから。
「要らねーよ」
 知らぬ間に、言葉が飛び出していた。
「今更そんな奴らに会って聞かなくても、おまえの誕生日くらいこの俺さまが決めてやる」
 何を言おうかと考えるより早く、まるで最初から用意していたようにすらすらと。
「……なんだい、そりゃ」
 こちらは態度も口調も真面目そのものだったのだが、それが逆に笑えたのだろう。瞬きひとつした後で、ぷっと吹き出して突っ込まれた。それだけでは収まらなかったらしく、口元を抑えて笑い出す。つられてこっちまで可笑しくなってしまったが、ぐっと我慢して真面目な表情を繕った。
「そーだなー、おまえ寒いの嫌いだし、やっぱ暖かい季節がいいな。でも夏は暑すぎてバテてそーだし……うん、春だな。春にしよう」
 我ながら勝手な理屈でそう決めて、さて春のいつ頃にしようかと頭を捻る。まだ笑いの収まらないしいなは少々息を切らしながら、それでも口を挟まずに聞いている。
「んー……。あ、あれだ。春といえば桜! ってことで、桜の時季がいいな。一番綺麗に咲いてる頃」
 穏やかな春の日差しの中、微笑む姿を思い浮かべた。風に舞う花片に囲まれた彼女はきっと、これ以上ないとびきりの笑顔で、華やかに艶やかに輝いている。
「桜の頃、ねぇ……。悪くはないね」
「だろー? それじゃ決定ね、来年の桜が満開になった日が、この先しいなの誕生日ってことで」
 身を寄せて覗き込んだ瞳の中で、見慣れた蒼い目が笑っている。わかったと頷いてくれたしいなを抱き締めて、言いようのない幸福に酔った。

 この次、春が来たら。
 満開の桜の下で、君を祝おう。

小説ユーティリティ

clap

拍手送信フォーム
メッセージ