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31.朝ぼらけ有明の月と見るまでに 吉野の里に降れる白雪

 さらり、と布の擦れる音がして、傍らのぬくもりが離れていった。起こさないように気遣ったのか、それきりなんの物音もしない。こちらも続いて起き上がろうと思ったけれど、まだ眠りから覚めきらない体は緩慢な動きで小さく身動いだだけだった。穏やかな温度を残すベッドの中で、目を閉じたまま暫し待つ。やがて少しずつ四肢の自由が戻って来て、ああそろそろ起きられるかなと思った頃。きぃ、と軽いものが軋む音、次いでしんと冷えた空気が密やかに忍び込んできた。
「悪いな、起こしちまったか」
 半身を僅かに持ち上げて、下ろされたままの天蓋を捲る。できた隙間から顔を覗かせると、目が合うより先に声がかかった。
「ううん……さっき、起きたとこ」
 油断すると落ちてきたがる瞼を擦り、ベッドの上から滑り降りる。柔らかな絨毯を素足で踏んで、窓辺に立つ影の元へと向かえば、辿り着くなりさっと上着を被せられた。
「ほら、寒いから着てろ」
「ん……、そうだね。ありがと」
 両手で襟元を掴んで合わせると、薄い寝間着一枚の体がすっぽりと包み込まれてしまう。それまで自分の着ていたものを脱いだらしく、やや大きい上着はまだ温かくて、少しだけ香水の残り香があった。ついさっきまで、その腕に抱かれていた時と同じ匂い。
「この寒いのに、なんで窓を開けてるんだい」
 一度だけ、とくんと高鳴った鼓動を誤魔化すように問いかけた。頭の中はもう随分と目覚めてきたのに、声の方はまだそうもいかないようで、なんだか少しぼやけている。
「外がね、明るかったのよ」
「……外、が?」
「そ。だからもう朝なのかと思ってね、朝焼けに光る月なんて風流だよなーとふらふらと窓辺へ近づいたわけよ」
 多分、この男もいくらか寝惚けていたのだろう。寝起きの思考なんてそんなもので、理由などさしてなかったに違いない。
「で、こうして窓を開けてみたら、だ」
 促されて一歩、前に出る。そうして窓際に立ち眼下を見ると、見慣れた街並みが一面に白銀の化粧をされていた。それが何かは言うまでもなく、夜半の内に降り積もった雪であるのが明らかだ。
「月明かりかと思ったら、雪の反射する光なのな」
「へぇ……。意外と明るいもんなんだね」
「そーなのよ、俺さま驚き。雪のメルトキオなんて見たのは何年ぶりかってとこだしなー」
「よかったのかい? ……その、アルタミラに行かなくて」
 もう先日からかなり冷え込むようになっていたのに。そういえば今年は、『旅業』と銘打ったバカンスの予定を聞かされなかった。忙しくてそんな余裕はないと言われればその通りだが、例年ならこの地に冬の便りが届く前に、さっさと逃げ出していたはずなのに。
「ま、いーんでないの」
「……無理、してないかい?」
「そりゃね、すっきりさっぱり晴れやかな気分、とまでは言わねーけどな」
 でもな、と。続けて言うその表情は、とても穏やかに落ち着いていた。
「おまえと一緒なら、雪見も結構いいもんだなーとか、ね」
 笑いながらぎゅっと抱き寄せられて。
 されるがままに寄り添って、ばーか、とそっと呟いた。

 

32.山川に風のかけたるしがらみは 流れもあへぬ紅葉なりけり

「うわぁ、綺麗……」
 感嘆の声を上げながら、懐かしい少女がくるりと回る。こうして会うのはもう一年ぶりになるけれど、彼女はやっぱりあの頃のまま、変わったようで変わっていない。
「だろう? いい時に来たね、折角だからゆっくりして行きな。まあ、いつまでものんびりしてるわけにはいかないんだろうけどさ」
 両手を軽く広げて頭上を見上げ、今が盛りの紅葉を眺めて。忙しなく視線を動かす姿も愛らしく、小走りに駆けていくさまを見ていればついその足下が心配になる。
「きゃっ!」
 転ぶんじゃないよと言いかけた、正にその瞬間に上がる悲鳴。やっぱりねと苦笑しながら駆け寄ると、怪我はないらしく既に立ち上がり埃を払って笑っていた。
「まったくあんたは相変わらずだね。気をつけなよ?」
「えへへ、ごめんね」
 はにかんで笑う表情も、記憶にあるものと変わらない。つられてつい微笑んでしまいそうになる、ふんわりと柔らかい空気が流れる。
「おいで、こっちにいいところがあるんだ。あたしのとっておきの場所」
 差し出した手を、なんの躊躇いもなく握られる。繋いだ手の温かさが、懐かしくて心地良くて嬉しかった。


 直線で結べばきっと、さほどの距離でもないのだろう。だが案内なしに辿るのは幾分難しいだろう道なき道をかき分けて、女二人で手を繋ぎ、訳もなく笑い合ったりして歩くのはなんだか秘密めいていて、おかしいことなど何もないのに妙に楽しくて仕方がない。
「はい、到着」
 時間にしても僅かに十分足らずの短い間。けれど随分奥にまでやってきたから、この辺りには人の手が入った様子はない。
「足下気をつけなよ」
 こちらから先に立って進んだ先は、倒木が作った天然の橋。その下にはさらさらと流れる清流がある。落ちないように手を取り合って、覗き込めばあちらこちらに落ちた紅葉を散らして作った柵が見えた。
「すごいね、綺麗だねぇ……!」
「こないだ見つけたばかりなんだ。まだ誰にも教えてないんだよ」
「教えてもらったの、わたしが一番最初なの? 嬉しいなぁ」
 無邪気にはしゃぐ彼女の笑顔は、あの頃憧れと羨望をもって眺めたものと変わらぬお日さまのような鮮やかさ。その眩しさを、今は羨むのでなく共に笑い合えるようになったことが、何よりも幸せな変化だと思う。
「ねぇコレット。この場所、二人だけの秘密にしようか」
 だからロイドにも教えちゃ駄目だよ、と。
 聞く者なんて誰もいないのに、密やかに小声で囁けば。
「ほんと?」
 同様の囁き声で返る言葉が、何故だろう、とても嬉しくて。子供のように頷いて、くすくすと忍び笑いを二人で交わす。一頻り笑ったそのあとで、差し招く手に従い耳を貸した。
「しいなも、ゼロスに教えちゃだめだからね?」
「……なっ、なんであいつが出てくるんだいっ!?」
 不意打ちの発言についうっかり、内緒話どころではない大声を上げてしまったけれど。
 彼女はただ楽しそうに笑うだけで、だって秘密だからねと言うだけで。
 ああやっぱり、この子には敵わないなと笑うしかなかった。

 

33.久方の光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ

「綺麗だねぇ」
「そーだなー」
「でももう満開だから、あとは散るだけなんだよね」
「そりゃまあ、いつまでも咲きっぱなしってワケにもいかねーからな」
「散っちゃうのはちょっと寂しいけど……でも、こうやってひらひら落ちていくのは綺麗だね」
「そーね、まぁこーゆーのも風流だからねー」

 ひらりひらり。
 春の穏やかな陽射しが降り注ぐ中、緩い風に吹かれた花片が舞う。白の中にほんの僅か朱を含んだ淡い色は、雪と見紛うほどなのにどこか柔らかな印象を残して地に落ちた。あの冷たく鋭い色によく似ているのに、不思議なほど嫌悪を呼び起こさないこの景色。それはとてものどかで心落ち着ける、好ましい光景であるのだけど。

「……散らなきゃいいのになぁ」

 ふと思い浮かんだそんな言葉が、気がつけばするりと滑り出ていた。隣に座る思い人は、きょとんとした顔で小首を傾げてこちらを見ている。

「や、これはこれでキレーだと思ってんだぜ? だけどさあ、やっぱちょっと勿体ないっつーかなんつーか」
「桜、そんなに気に入ったのかい? 確かにあんた、この春はしょっちゅう花見に来てたけどさ」
「あー、そのー、ね。うん、そう気に入ったの。ほら俺さま綺麗なモノは好きだしねー?」

 若干苦しい言い訳に、今ひとつ腑に落ちない顔をしていたしいなだが。それ以上根問いはされずただふうん、とだけ言われて会話が途絶えた。そうしている間にもはらりはらり、舞い散る桜吹雪は止まらない。

(これで暫く会えなくなるなー……)

 今更本音は漏らせない。
 春の花見にかこつけて、本当はしいな会いたさに通い詰めていただけだなんて。だからいつまでも散らずにいてほしい、なんて。
 相変わらず散り急ぐ花片も、次の理由を探して逸るこの心も。
 静かに澄み切った心境になど、なれそうにもない。

 

34.誰をかも知る人にせむ高砂の 松も昔の友ならなくに

この作品はTOS本編終了から数十年後のお話になります。
若干オリジナルキャラクター的なものも出ているので、そういったお話が嫌いな方は御覧にならないことをお勧めします。
それでも気にしない!という方は、こちらをクリックして御覧下さい。

 
35.人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞむかしの香に匂ひける

『わ、綺麗……』
『お? なになに、おまえ花好きなの?』
『なんだい、あたしが花を愛でちゃ悪いってのかい?』
『ちげーよ、誰もんなコト言わねーっての。花が好きならさ、俺さまんちに来てみろよ。うちの庭と温室は、そりゃーもう見事なモンだぜー?』
『そう言って他の女の子も連れ込んでるんだろ。信用できないね!』
『そんなつれないこと言わずにさぁ、一回くらいいーでしょー? ねー?』

 あれはまだ、二人が"おつきあい"とやらを始める前のことだった。あたしは散々断ったけど、結局はあいつのしつこい誘いに負けてしまって。一度だけ、花を見るだけとの約束で、初めてこの家に招かれた。メルトキオ上流区の中でも随一の、豪奢な邸宅に踏み入るのはどうにも気後れして仕方なかったが、案内された庭園は思わず言葉を忘れるほどに美しかった。

『どーよ、気に入った?』
『……なんか悔しいけど、この庭は確かに綺麗だね』
『でしょー? 気に入ったんならさ、またいつでも見に来ていーから。俺さまがいない時でもセバスチャンに言えばわかるしな』

 確かその手には乗らないと、反論したはずだったのだけど。四季毎に異なる花の名前をいくつも挙げて、もう来ないなんて勿体ないと蕩々と説かれたものだから。

「行かない方がいいって、わかってたのにね……」

 誘われるまま訪ねるうちに、いつしか目当ては花よりも人へと移り変わった。ありきたりな言葉だけれど、世界が少し輝いて見えた。分不相応な幸せに、きっと浮かれていたのだろう。
 季節は巡り、あの日と同じ花がまた咲いた。可憐な薄紅の花片は、今も変わらずに甘い香りを届けているのに。

「よ、しーいな。久しぶりだなぁ――」
(……あんたは、何を考えてるんだろうね?) 

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