櫂なき途を行く

 大事なものだからこそ、手放さなければならないと思った。

『なあ、俺さまたちそろそろ終わりにしねぇ?』
『いい加減飽きてきたんだよ。メルトキオにはこーんなに沢山カワイコちゃんがいるってのに、つまみ食いしないで我慢なんてさあ』
『そのご立派な胸も眺めてるだけじゃ意味ねーしなー』

 それが一番だと、正しいはずだと信じて、不誠実な台詞で突き放した。けれど彼女は怒りもせず、涙も見せず、ただ驚いたように目を丸くして、それから。

『わかった』

 たった一言。素っ気ない答えを言い捨てて、くるりと踵を返し立ち去った。軽やかに風に舞う様が好きだった、桃色の帯を名残のように長く靡かせて。
 馴染んだ後ろ姿が雑踏に紛れ消える前、一度だけ立ち止まり振り向いた彼女の唇が動く。声は届かず、形だけが告げた言葉は〝さよなら〟。俯き加減の表情は、落ちかかる前髪に隠され見えなかった。ただその頬を伝って落ちた、一筋の雫だけを今もはっきりと覚えている。


 柄にもなく苦い記憶を掘り起こしてしまったのは、先ほど込み入った話をした少女のせいだ。自分と同じく神子なんて立場に生まれた彼女は、そのせいかどうかは知らないが他人の感情の機微に妙に聡いところがある。おっとりのんびり、天然ドジっ娘な彼女と話すのは大概の場合楽しく過ごせる暇潰しだが、時折、嫌になるくらい痛い所を突いてくる。そんな時こそお得意の話術で逃げ出したいのに、彼女のまっすぐな視線はそれを許さないのだから始末が悪い。
『ちゃんと聞いてあげて。ね?』
 どこまでも純粋な、汚れない瞳で言われてしまえば、否やとはさすがに言えなかった。だからこうして、自ら地雷原へ向かう事態になっている。上手くすれば致命傷は免れるかもしれないだけ、死刑台に上るのよりはマシだろうか。
「しいなー、いるー?」
 油断すると際限なく漏れてきそうな溜息を喉の奥へと押し込んで、やる気のない調子で声をかける。本当はいちいち問うまでもなく気配でわかるが、まあ一応マナーとして。
「……しーいなー?」
 再度、呼んでみるが答えはない。中で何やらしているらしい気配はあるが、さてどうしたものだろうか。できればこのまま立ち去りたいところなのだが、話を聞くと約束した手前それもできない。
「…………はぁ」
 呑み込んだばかりの溜息をひとつ。覚悟を決めて、扉へと手をかけた。
 全体に安上がりな造りの割に、手入れは行き届いているらしい。軋みもせず静かに開いた扉の奥、壁際に備えつけの鏡に向かい、熱心に帯を直す姿が目に入る。どこか思い詰めたような表情に、声をかけるのが憚られて躊躇った。
「…………」
 沈黙だけがその場を占める。やがて彼女は、直した帯を敷かぬようふわりと広げてからベッドに座り、ほう、と小さく息を吐いた。未だこちらには気づかない。隠密集団の端くれとして、それでいいのかと若干不安になるが、それだけ深く思い煩っているのだろうか。
 眺めている間に更に二度、続けて悩ましげな吐息が漏れる。これ以上黙っていると、どうにもこちらの精神衛生上、大変よろしくないような気がしてきた。
「……言えるわけ、ないじゃないか」
 とどめとばかり、そんな呟きを聞かされるに至って。仕方なく、こちらから気づかせるべく口を開いた。やはり気は進まない、けれど。
「なーにが、言えるわけないのー?」
 瞬間、いっそ見事なほどに飛び上がって叫ぶ姿に、自然と頬が緩んでくれて助かった。いつまで保つかは知らないが、始めだけはせめて、いつもの軽薄な自分でいたい。


「その……何から言えばいいのか、よく、わかんないんだけどさ……」
 途切れ途切れに辿々しく、でも絡めたまま視線は逸らさずに。恐らく、こちらがいつになく神妙に聞いているからだろう、彼女の頬は早々と朱に染まっている。そんな可愛らしいところが好きで、だから手に余って投げ出した。それでも構わずにいられないのが、自分の弱さなのだと思う。
「昔のあんたは……、あたしの、何が良くてつきあってたんだい」
 女らしくもなく、お淑やかでもなく、口より先に手が出るようながさつな女だってのに。
 自嘲気味に並べられた単語は、なるほど聞いた通りの事実そのもの。当時も今も、彼女の根幹はさして変わってはいない。
「それが良かったんじゃねーの? 新鮮だったしなぁ」
 もしも彼女が、当時から侍らせていた取り巻きたちのような女だったなら。そもそも興味すら持たなかったに違いない。見慣れない衣装と、スタイルの良さに惹かれて口説いてみても、きっとそれで終わり。特別になんてならなかった。
「毛色が違うから面白かった、ってことかい」
「ま、そーゆーこったな」
「……そう、か」
 ついと目を逸らし、床へと落ちて彷徨う視線。俯いたその横顔が、あの日の残像に少し、似ていた。
「じゃあ、面白いからつきあったけど……飽きたから、もう要らなくなった。そういうこと?」
 絞り出した、というのが相応しい、どこか疲れたようなざらついた声。そんな声出せたのかと驚いてから、できるなら聞かずにいたかったなと苦く思う。
「そーだなー、間違っちゃいないな、うん」
 軽口に逃げられない分、曖昧な嘘で保身を図る。本当の理由は違うけれど、それはこの胸ひとつに納めておくのだと決めたから。既に新しい恋を見つけた彼女に、余計な感傷を植えつけてまた呼び戻すことはしたくない。
「だったら……」
 不意に伏せた面が上げられる。正面からぶつかった瞳の色が、ゆらり揺れて潤んでいた。
「もしまたつきあったとしても、また飽きられて捨てられちまうだけだね」
 濡れて震えた涙声。無理矢理に作った笑みは意味をなさず、常の気丈さに見合わぬ儚げな空気を醸し出す。崩れかけて歪む唇から、ひび割れた笑いが漏れて余計に胸を締めつけた。
 咄嗟に伸ばしかけた腕を押し止め、触れてはいけないと繰り返す。今の自分に、そうするだけの権利はない。彼女はもう、俺のものではないのだから。
「な……、なーに何言ってんのよ、ロイド君はそんなひどい男じゃないっしょー? 引く手数多の俺さまと違って、飽きたからポイなんてするヤツじゃないんだから。そんなに心配しなさんなって」
 幸せに。どうか幸せに。
 この手では与えてやれないものを、優しい誰かの元で得て、どうかそこで笑っていて。
 同じ影を抱いているから、その傷の深さを知っているから。惹かれるものはよく似ていて、だから彼ならばと思えたのだ。それなのに手放す為につけた傷が、踏み出すことさえ迷わせるなら。
「ああいう一途なタイプはね、一度捕まえたらしっかりばっちり愛してくれちゃうからだーいじょーぶ。だからほらそんな顔するなって、なー?」
 彼女らしく笑って、前を向いていてほしくて、精一杯励ましと慰めの言葉を並べ立てた。餞のつもりで選んだ言葉に、しかし返されたのは困惑の色。
「なんで、そこでロイドの話になるんだい?」
「え、違った? でも俺さま的にリーガルのおっさんとかがきんちょとかは止めといた方がいいと思うぜ、色々と。ああ幼馴染みのおろち君とか? ならまあいいか年も釣り合うし」
「ゼロス? あたしにゃ何の話をしてるんだか全然わからないんだけど……」
 本気で訳が分からないと言いたげに、きょとんと首を傾げる彼女。ついでに涙も引っ込んだのか、潤んでいた瞳も今はいつも通りに輝いている。
「えーと……。だからつまり、俺さまがひっどい振り方しちゃったせいで次の恋にも臆病になっちゃうんですどうしましょうって相談、じゃねーの?」
「全然違うよっ! どこをどう聞いたらそうなるんだいっ」
「そんな……いくら暴力鬼女のしいなでも、俺さまのせいでレディとしての幸せが遠のいたならと思ってちょっと責任感じてたのに!」
 言い合いで時間を稼ぎながら、必死に頭を巡らせる。どこで食い違ったというのだろう、シリアスな雰囲気が台無しだ。いや、それは良いことなのかもしれないが。
「……大体、あたしは次の恋なんかしてないよ」
 ぽつり、呟いた言葉に耳を疑う。じゃあなんだ、今までの正に恋煩いですとしか言いようのない言動の数々は。時折悩ましげにロイドとコレットの睦まじい姿を、目で追っていたのはどう説明するつもりなんだ。
「ロイドは良い奴だよ。尊敬もしてる。でもそういう風に好きだとは思わないよ」
「コレットちゃんに遠慮して諦めたんじゃねーの?」
「違うよ! そりゃあ、たまに羨ましいなとは思ったけどさ……」
 だってあの二人、誰がどう見たって両思いじゃないか。手に入らないものを羨む調子で、つけ足された言葉に嫉妬はない。羨ましいのは『ロイドの隣』ではなくて、『仲の良い二人』なのだということか。
「……俺さま、しいなはロイド君にフォーリンラブなんだとばっかり思ってた」
 だから祝福しようと、奥手すぎる彼女を焚きつけてやろうと、陰に日向に涙ぐましいお節介を焼いてきた、はず、なのに。
「ちょっと憧れてたのは認めるけどサ。でもそういうのじゃないんだよ」
「そーなんですか……」

 なんだよ。
 だって、これじゃ本当に。

「俺さま、ばっかみたいじゃん……?」
 諦めたはずだった。彼女の心が、誰に向かっていようといまいと関係なく。いつか手放しがたくなって、守りきれず壊してしまうのが怖かったから。なのにどうして、こんなにも今、安堵してしまっているんだろう?
「……大概諦め悪ぃなー、俺も」
「さっきから何をぶつぶつ言ってんだい、気持ち悪いねぇ」
 内に向かいかけた思考を、あんまりな台詞が引き戻す。でもその表情は柔らかく笑んでいて、そう悪いものではなさそうだった。
「そりゃー失礼いたしました。で、おまえの言いたいことってのはもーいーの?」
「うーん……なんかすっきりしちまったからね。これでいいや」
「それは何より」
 望み通り、笑ってくれた彼女はさっぱりと晴れやかにそう答える。
 次の恋、なんてしていない。でも恋をしていないとも言ってはいない。

「……俺さまももーちょっと、頑張ってみちゃおっかなー」

 諦めの悪いのがお互いさまなら。
 もう一度、拾い上げてみても許されるだろうか。

小説ユーティリティ

clap

拍手送信フォーム
メッセージ