光差す帰路へ

 天使化というのは、その性能だけを取ってみれば、なるほど便利なものだと思う。肉体の無機化に伴う身体能力の向上、羽による飛行、更には明かりひとつない薄暗い場所でも、不自由なく動けるほどの驚異的な視力。遠くの物音でも逃さず拾える聴力も、敵の目を掻い潜っての移動には役に立った。
「さて、と」
 延々と続いた狭苦しい通路が終わり、少しばかり開けた場所に辿り着いた。周囲が幾分明るく思えるのは、どうやら遙か頭上まで吹き抜けになっている為らしい。見上げれば、ちょうど井戸の底にでもいるかのように、ぽっかりと丸く開いた空間とそこに渡された通路が見える。とはいえその上にも何かあるのか、この穴の底にまで届くほどの皎々とした明るさではない。
「道は……この先で良さそうだな」
 見渡した視線の先に、黒々と口を開けた通路があった。今も背にしている、ここまで通ってきた通路と同じ構造。正直、またこれかとうんざりするが、文句を言っても始まらない。苦笑して一歩踏み出したその時、頭上から穏やかでない爆音が響いた。
「おいおい、いきなりなんだってのよ……?」
 言ううちにもぱらぱらと何かの破片が降ってきて、何事かとその元を振り仰ぐ。穴の端に何やら蠢くものを認めて、まさか敵襲かと凝視すれば――それ、は。
「嘘だろ……!?」
 暗くても、遠くても、見間違いようのないその姿。腕一本で体を支え、ふらふらと不安定に揺れる様は、今にも滑り落ちてしまいそうだ。そうなれば当然、この高さから落ちて無事でいられるわけがない。いくらエクスフィアをつけていたって、大怪我で済めば奇跡だろう。そして奇跡が起きなければ、彼女は。
「ったく、いきなりメインイベント開始ってことかよ!」
 悪態をつくのもそこそこに、逸る心のままに地を蹴った。出せる限りの最高速度で、上昇していくその目の前で。辛うじて壁を這う木の根を掴んでいたその手が、するりと、……離れた。
「くそ、間に合えよ……っ!」
 ふわり、と。広がった帯が羽のようで、こんな時でなければきっと綺麗だと思ったに違いなくて。でもまっすぐに落ちていく体を受け止めなければ、やがてそれは物言わぬ肉塊に成り果て鮮やかな赤に彩られる。いつかのように。母のように。
 浮かびかけた笑えない想像を振り払い、祈るような思いで両手を伸べた。酷使された羽が実体もないくせに痛んだが、そんなことはもうどうでもよかった。こんなところで死なせてたまるか、思う事はただ、それだけ。
「絶対に、助けてやるから……」
 あと少し、もうほんの少しで手が届く。煽る風もないのに体が揺れて、息苦しくなるのが奇妙だった。時間の経つのがやけに遅くて、コマ送りの視界の中、ゆっくりと下りてくる影を追いかける。そうして遂に手が届いて、やっと――。
「……っく、ぅ」
 抱き止めた瞬間、両腕に伝わる強い衝撃。思わず息を詰まらせながら、取り落とさぬよう必死に耐えた。もし天使化していなければ、脱臼くらいはしたかもしれない。人一人分の体重に、落下の衝撃が加われば当然予想して然るべきことではあったが、たとえ両腕がもげたとしてもきっと同じことをしただろう。改めて腕の中のぬくもりを確かめてみれば、意識はないようでも確かにちゃんと息をしていた。それだけのことが泣きたいくらいにただ嬉しくて、やわらかくあたたかい体を固く抱き締めて放せなかった。

「しいな、おい、起きろよ……しいな!」
 再び穴の底に降り立って、抱えたままの体を揺する。外傷は特にないようなのに、呼びかけに答えは返らない。
「なぁ、いつまで寝てんのよ。俺さまは結構忙しいんだぜ?」
 口にした軽い言葉に反して、その声は意外なほど狼狽えた響きで辺りに散った。もう一度少し強めに揺する手は、なんだか縋りつく姿のようにも見える。
「早く、起きろって……頼むから、さぁ」
 実際の所、残された時間は多くない。まだやらなければならないことが山ほどある。だからといって、このまま彼女を置き去りになどできなかった。もしここにまで敵が来たら、その時にまだ意識のないままの彼女がいたら。どうなるかなんて、火を見るよりも明らかだ。
「いい加減に起きろよ、起きないと……」
 閉じられたままの瞼、ぴくりとも動かない長い睫毛に、ふと御伽噺の眠り姫の姿が重なった。あれはいつだったか、僅かしか共に過ごせなかった妹の幼い頃に、せがまれて読んでやった薄い絵本の。
「……起きないと、俺さまがちゅーしちゃうぞー?」
 姫君の眠りを覚ますのは、白馬の王子様の役どころ。王子にはほど遠い裏切り者には、あまりにも不似合いで笑えるけれど。そんなふざけた台詞で目覚めてくれたら、いつものようにアホ神子と罵りそして殴ってくれたら。
「ん、うぅん……」
「……し、しいなっ!?」
 切なる願いが通じたのか。小さく呻き、身動いだ彼女の睫毛が揺れて、ややあって切れ長の瞳がぱちりと開いた。ぼんやりと焦点の合わない様子だったのは一瞬だけで、すぐに強い輝きが戻ってくる。
「お……おー、やっと起きたか。いやぁ残念だなー、もーちょっと寝てたら俺さまがあまーいキッスで起こしてやったのになー」
 自分の立場なんて十分わかっているくせに、それでもその口から出てくる言葉が怖かった。裏切り者と呼ばれるのも、嫌悪の表情で見られるのも、覚悟はしていても割り切れるほど強くはない。だからわざと逃げるように、はぐらかすように悪ふざけを言う。それでも殴られる痛みだけは受け入れようと、目を閉じて衝撃を待ったのに、いつまでもそれはやってこない。その代わりに。
「……し、いな……?」
 ぽふ、とごく軽い音を立て、当たったものは拳でも平手でもなければ勿論式符でもなくて、恐る恐る目を開けばすぐそこに藤色の背中が見えた。別に後ろを向いているわけではなくて、そう、それはちょうど見下ろす位置にあるわけで。首に巻きついた腕は締め上げようとしているのではなく、抱きつかれたのだと理解するまでに暫くの時間が必要だった。
「え、っと……しいな、さん……?」
 漸く現状を認識して、絞り出した声は情けないことに掠れていて。こんなときどうすればいいかなんて、得意分野だったはずなのに何ひとつ思いつかなかった。そのうちに耳元から啜り泣く声が聞こえてきて、ますます思考が停止する。それでもやっと浮かんだのはとにかく宥めなければということだけで、そろそろと震える腕をその背に回し、ぎこちなく抱く形を作った。
「あーその……なんつーか……ごめん、な?」
 一体何がごめんなのか、何に対して謝っているのか、自分でもよくわからない。ただその言葉は何かのスイッチにはなったようで、言うなり首に抱きつく腕がぎゅっと締まって、啜り泣きが本格的な嗚咽に変わった。こちらはといえば、相変わらず背中をそろりと撫でてやるだけで、これ以上何をしてやればいいのか途方に暮れる。
「もー……、なんでおまえがそんなに泣くのよ……」
 怒られるのは予想していた。でもまさかいきなり泣かれるとは。困り果てて漏らした呟きに、やっと反応が返ってくる。
「……ばか」
「ん」
「ばか、大馬鹿っ、このドアホっ」
「そうだな……そうだよな」
 しゃくり上げながらの罵倒を否定するつもりは毛頭なくて、ただひたすら頷きながら肯定する。背を撫でる手だけは止めず、何を言われても甘んじて受けようと心を決めた。
「あんたなんかねぇ、あんたなんかっ……!」
「……うん?」
 不意に途切れた言葉の先は、促してもすぐには出てこなかった。他に動くもののない空間に、途切れない嗚咽だけが響いている。
「……ずるい、よ……」
「えぇ、何がよ?」
 予想外の回答に、思わず少し笑ってしまった。
「あんたなんか、嫌いだって……言ってやろうと、思ったのに」
「うん、だと思った」
「ずるいよ、こんな風に、優しくされたら……嫌いになんか、なれないじゃないか……!」
 言うだけ言うと、また力任せに抱きついてきてそのまま泣かれた。そろそろ息が苦しくなってきたが、引き離す気にはなれなかった。
「おまえねー、俺さまはおまえらを裏切ったのよ? それがたったこれだけで、あっさりまた信じちゃうわけ? 甘すぎじゃねーの?」
 こちらもこちらで、相変わらずぽんぽんと背を撫でながらでは説得力も何もない。ただあまりにお人好しな台詞はやっぱり少し心配で、つい揶揄してみたくなってしまう。
「……だって」
 いくらか息を整えたらしく、呟いたしいなが身を起こす。
「あたしのこと、助けてくれたんだろ?」
 散々泣いた涙の痕はまだはっきりと残っていて、涙そのものもまだ止まっていなくてぽろぽろとこぼれ落ちていたけれど。それでも彼女は笑っていた。今まで一度も見たことのない、透明で綺麗な顔で笑っていた。
「……戻ってきて、くれるんだよね?」
 答えるように笑い返して、小さくひとつ頷いて。
 今度こそ、もう二度と放さないように抱き締めた。


 暫くの間、時の経つのを忘れていた。
 多分それは時間にすればさしたる長さではなかったのだろうが、この状況では無駄に費やせるほど短くもない。厚い壁を隔てた遠くから、がらがらと何かの崩れる音と重い地響きが届いてやっと、当初の目的を思い出した。
「今のは……?」
「やべっ、時間ねーの忘れてた。この先の部屋に床の崩れるトラップがあんのよ、急がないと時間切れになっちまう」
「なんだって!? そんな大事なこと早くお言いよ!」
「だから忘れてたんだっつーの! ほら行くぞ、まだまだ大仕事が残ってんだからな」
 そう言ってさっと立ち上がり、まだ床にいるしいなに手を伸べる。すぐに差し出されたその手を引いて、近くなった瞳ににやりと笑う。
 途端、彼女の空いた左手が、景気よく破裂音を立てて頬に当たった。完全な不意打ちに、思わず目の前に星が舞う。
「それだけで勘弁しといてあげるよ!」
 踏鞴を踏んだ俺を残して、さっさと駆け出していく後ろ姿は、もうすっかりいつも通りの彼女だった。
「ったく、きっついのお見舞いしてくれやがって……」
 愚痴りながらも、追いかける。
 早くその背に追いついて、またお馴染みのじゃれ合いをする為に。

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