雪原に咲く [3]

 一瞬、落ちた沈黙を払うように思い切り息を吐ききった。代わりに冷えた空気を目一杯吸い込んで、肺に満ちる冷気で頭を冷やす。
「あんまり良くねーなー。ホントは」
 ごく軽く言うつもりだった僅かな本音は、予想外に弱々しくて情けなくなる。困らせたいわけではないのに、見つめてくる瞳が不安げに揺らいでいて少し慌てた。
「や、でも別に何か実害あるわけじゃねーし? ここにいる間中宿に引き籠もってるってわけにもいかないんだから、ぜーんぜん許容範囲よー」
 いつも通り、を心がけてへらりと笑う。あまりうまくいった気はしなかったが、それでも。
「それにほら、しいなとデートできるのなんて貴重だしー。まあこの寒さじゃ見事な胸が拝めないのが残念だけどな」
 怒ってくれればいいと思う。いつものように、あんたはあたしの胸しか見てないのかと、拳骨のひとつもくれればいい。そうすればきっと、こちらも調子を合わせてふざけられる。
 ああ、それなのに。
「……無理、しなくていいよ」
 日頃とんと聞かない優しげな声と、どこまでも真摯な目が追いかけてくる。
「見たくないものを、わざわざ直視する必要ないだろ」
 逃げられない。
 逃げ場などない。だってそれは、その言葉は、確かに。
「あんたが言ったんだよ。あの日のあたしに」
「……そんなことも、あったっけね」
 認めるより他になかった。救うつもりで投げた言葉に、今度は足下を掬われる。因縁と呼ぶにはひどく柔らかく温かで、だからつい縋りたくなる、光のかけら。

「昔は好きだったんだ、雪」
 好きだから遊びに連れ出した。
 いつも、義務的にしか相手をしてくれない人だった。それでもあの日は、珍しく一緒に来てくれて、慣れない白い手で雪だるま作りを手伝ってくれた。気温の低さも雪まみれの手の冷たさも、珍しい楽しみを前に何ひとつ感じない、まだ無邪気な子供だった頃。
「白地に赤っつーのがまた目立つんだよなー。どーしても気になっちゃうってーの? ほら、俺さまって繊細だからさぁ」
 元々、あまり幸せでもなかった少年時代。それでも一応は存在していたぬるま湯の平穏を、決定的にぶち壊してしまったのが雪の日の記憶。灰色の空と白い街並みに、咲き乱れたあの鮮烈な赤。押された烙印、刻み込まれた呪詛の言葉。
「まーでも、冬になったら勝手に降るもんだしなー。しょーがないよなあ、こんくらいは慣れないと」
 聞かれてもないことを、ぺらぺらと喋り続けて間を持たせる。妙に饒舌になっているのは自覚している、けれどそうでもないと余計に沈み込んでしまいそうで止められない。
「雷は天気が悪けりゃ季節問わずに勝手に鳴るもんな、そっちの方が困るよな。あー、俺さまってば情けねーの、ホント……」
 勝手に溢れ出たのは乾いた笑い。一頻り笑ってそれからまた、何か話さなければと口を開きかけた、刹那。
「もういい」
 暫くの間、何をされたのかわからなかった。
 たっぷり十秒は経ってから、やっと抱き締められた事に気づく。
「え、っと、しいな……さん?」
「もういいから。自分で傷口抉るみたいな真似、しないどくれよ……」
 十五センチの身長差を埋めるように、背伸びして首に回された腕。恋人同士の抱擁なんて甘ったるいものじゃなく、泣いている子供をあやすようなその抱き方。常ならば色気がないと揶揄するところ、だが今はそれが何より温かかった。
「あんたは、人にも自分にも優しくしろって言ったけど」
「……言ったなあ」
「どうでもいいとこは優しい通り越して大甘なくせに、肝心な所で厳しいじゃないか」
 肩口に押しつけられているせいで、くぐもって聞こえる穏やかな声。頬に触れる髪の感触が、冷たいのに心地良くてどこか甘やかだった。
「甘えていいんだよ。あんただって、こんな時くらいはさ」
「……そっか」
 意外なほど、あっさりと。
 すとん、と納得してしまった自分が、なんだかとてもおかしかった。だからおかしいついでにもうひとつ、ねだってみようかな、なんて思ったりして。
「ねー、しいな」
 そっと押しやって離れさせた彼女の顔を、まっすぐに見つめて緩く微笑む。
「なんだい?」
 きょとんとして見返す瞳の中、映る自分に影はない。
 だからもう一歩、踏み出してみようじゃないか。
「雪だるま作って。一緒に」

「……はあ!?」
「思いっきりデカいのがいーなー。あと雪合戦したい、ハードなやつ」
「ゼロス? ど、どーしちゃったのさ急に! あんた雪嫌いなんじゃなかったのかいっ」
「うん嫌いだいっきらい。つーか苦手。ヤな思い出しかねーもんなー」
「じゃあそんな無理して遊ばなくたって……!」
 広場の中心に向かってざくざくと大股で進みながら。
 小走りについてきて止めるしいなを、勢いよくくるりと振り向いて。
「だからさ」
 目に飛び込んでくる、驚いた顔。予想通り。
「一緒に『イイ思い出』作るの、手伝ってくんない?」
 言い切ったその時の笑顔は、きっと。
 最っ高に格好良かったに違いないと、自画自賛で確信する。

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