遠雷

 しとしとと降り続く霧雨を、窓越しにぼんやり眺めていた。見るともなく仰いだ空は暗く、厚い雲の層は薄れる気配もないばかりか尚もその勢力を増していく。ああこれは嵐になるなと、他人事のように思いながら溜息を吐いた。

「なぁーにしてんの」
 不意に背後からかけられた声はいつも通りの軽薄さで、それがなんだか少しほっとする。
「別に何も。ちょっと空、見てただけだよ」
 振り向きもせず投げた答えは思いの外小さくて、先ほどから激しさを増した雨音にかき消されてしまいそうだ。らしくなかったかなと思いはしたが、わざと明るく振る舞う気にもなれなかったからそのまま流した。
「ったく、よっく降るよなー。俺さまの自慢のロングヘアがじめついちゃってもー、鬱陶しいのなんの」
 果たしてこちらの答えが聞こえたのか聞こえなかったのか、よくわからない台詞を流暢に撒き散らしつつ、近づいてくるのが気配でわかる。すぐ真後ろまでやってきて、止まる足音にようやっと振り向いてやろうかと思った矢先、
「あーもー、そんな顔すんなっての」
 とん、と軽い音と衝撃。
 見れば窓際の壁に大きな手。後ろ向きのまま片側だけ、緩くだが閉じ込められたような格好。
「顔、見てないじゃないか」
「窓ガラス。映ってる」
「……あ」
 人気のない廊下の片隅のこと、仲間たちの誰かにでも見られたら誤解されそうな状況だなと思ったものの、触れそうで触れない距離の温度が存外悪くなかったから、払い除ける気にはなれなかった。
「嫌いなら部屋に引き籠もってりゃいいのに」
「……雨は、嫌いじゃないよ」
 主語を欠いた表現でも、その意図するところはわかっている。だから敢えて違うことを口にして、なけなしの虚勢を張り巡らせた。
折悪しくちょうどその瞬間、視線の遙か先で青白い稲妻がぴしりと走る。反射的に竦む体が、我ながら笑えるくらい滑稽だった。次いでどぉん、と鳴り響く重低音にも、身構えていた癖にこれまた心臓が飛び跳ねて、知らず吸い込んだ息が詰まる。
 いい加減、慣れねばならない。だからこそこうして怯える体に鞭打っているのに、無意識に荒くなる呼吸が恨めしい。こんなことでは、契約なんてできやしない。そうしたらまた、あの時みたいに、あたしのせいで、きっと。
「あのなー……」
 沈みかけた思考を引き戻したのは、間近で聞いた不機嫌な声と深い溜息。だが我に返るより早く、いつの間にか回されていた腕の中に、有無を言わさず抱き込まれた。
「ちょっ、いきなり何するんだい!」
 慌てて腕をばたつかせ、藻掻いてみても拘束は緩まない。どころかぎゅうぎゅうと締めつけられて、どうやら逃がしてはもらえないらしいと諦めた。死に物狂いでどうしても逃れようとまでは、思えなかったせいもある。それだけの気力がないことも。
「大人しくしてろって。そーんなに自分を虐めても、良いことないぜー?」
 茶化すような言い方で常の軽さを装っても、ほんの少し低い声音にはどこか真剣さが透けて見える。ずっと窓辺に居た為冷えた体に、背中から伝わるぬくもりが心地良い。剥き出しの項の辺りに押し当てられた、柔らかな髪の感触がくすぐったくて。それに少しだけ安心している自分がいるのが、なんだか不思議な気分だった。
「でも、必要なこと、だからさ」
「んなモン、別に要らんでしょーよ。無理してトラウマ刺激して、いちいち震え上がってても何にも楽しくないでしょーが」
 自嘲気味の呟きは、あっけらかんとした物言いですぐに否定されてしまう。返す言葉を探し倦ねて、惑ううち畳みかけるように、更に。
「人間誰しも見たくないもののひとつやふたつあるもんでしょー。わざわざ直視する必要ねーって、な」
「……あんたはお気楽でいいね、全く」
「おうよ。人生気楽に行かなきゃ損だぜ? おまえはちっと厳しすぎ。人に優しく自分にはもっと優しく! これハッピーに生きる為の極意ね」
 今ひとつ品のない笑いを遠慮なく振りまいて、おちゃらけた台詞を堂々と語る。なんだか一人真剣に悩んでいたのが馬鹿みたいで、つられてつい笑ってしまってから気がついた。
 ごろごろと重く唸る雷は、幾分遠ざかりつつもまだ健在。それでも焼きついて離れなかった過去の記憶は、今だけはほんの僅か薄れている。
「どうせあんたが優しくする人ってのは、美人の女限定なんだろ」
 忘れることは絶対にない。それはきっとこの先も。
けれどこうして軽口を叩ける程度には、前向きになってもいいに違いない。
「美人だけとは失礼な。そりゃまぁ美人なら美人に超したことはないけどー、俺さまは老若も美醜も問わずいつでも、全ての女性の味方ですよー?」
「はいはい、そりゃ結構なことで。……ねぇゼロス」
「んー? なんだねしいなちゃん」
「あんたにちゃんづけされても嬉しかないよ」
 軽く答えてから、そっと息を吐く。
 気を鎮めて、少々の心の準備、そして。
「ありがと」

「……や、どういたしまして?」
 らしくもなく照れたのか、一瞬間が空いてからへらへらと笑い混じりの答えが返る。
 珍しいこともあるもんだと思いつつ、でもそれはそれとして。
「で、いつまでこうしてるつもりなんだい?」
「いってぇー!! 殴ることないだろいきなりー!」
「うるさいっ! あんたがややこしいところ触ろうとするからだろっ!!」
「しいなひどい……。あーあー、俺さまかわいそー」
「日頃の行いが悪いせいだねっ」

 こうなるのもきっと、自然な流れ。

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