曇りガラス越しの一問一答

「まったく……なんであなたはそう風呂嫌いなんですか」
 勢いよく閉めたばかりのガラス戸に、ぺたりと背中を預けて溜息をつく。ずれていた眼鏡をくい、と直して、いつものように両手を組んだ。
「うー、だって面倒くさいんだもーん」
「その返答は聞き飽きました」
 風呂に入るのが面倒だという、その気持ち自体は理解できないこともない。山積みの仕事に追われているとき、読みかけの本が佳境のとき、いちいち中断して行かねばならないのを煩わしく思うことはそれなりにある。しかし、だ。
「普通の人は、体が汚れてきたら多少面倒であろうとも、洗い流したいと思うものでしょう」
 彼女が「普通の人」に該当するかどうかは、良い意味でも悪い意味でもかなり疑わしいけれど。
「あたしだって綺麗にしたいなーとは思うんだよ? でもやっぱり面倒なんだよね~」
「あなたという人は……ものぐさのレベルが度を超えていますよ!」
「もー、そんなに怒らなくたっていいじゃーん……。あ、ねぇヒューくん。服脱いだけどこれどうしたらいい? ここに置いといたら湿っちゃうよ」
 問われてああそういえば、と考える。風呂に入るのを嫌がり逃げ回る彼女を、なんとか捕まえてタオルやら石鹸やらと共々押し込んだのがついさっき。それから洗い終わるまでは逃がさじとばかりに、退路を断つ形でここに陣取っている。よって、脱いだ服の処理にまでは頭が回っていなかった。
「構いませんよ。どうせそれも後で洗いますから、多少湿っても問題ありません」
「そっか。じゃあ適当に濡れないとこに置いとくねー」
 ええそうして下さいと答えるや、りょうかーい、と楽しげな返事が寄越される。間もなくしゃわしゃわと水の流れる音がし始めて、背中が少しだけ温もってきた。風呂場の内部を充たすお湯の熱気が、薄いガラス戸を通して伝わってくるのだろう。
「……フーリエさんの苦労が偲ばれますね」
 やがて聞こえてきた鼻歌に、やれやれと肩を竦めて苦笑する。あれだけ嫌がっていた割に、入ってしまえば風呂そのものは別に嫌いではないのだろう。だったらちゃんと入ればいいのに、いざ入るまでは何故ああも拒むのか。
「あー、そうだヒューくん」
「な、なんですか急にっ」
 突然ぴたりと歌が止み、声をかけられて驚いた。そういえば彼女は今裸なのだと不意に気づいて(いやもちろん、風呂に入っているのだから当然なのだが)、瞬時に体温が上昇する。
「あのねー、お風呂上がった後の着替えどうするのかなって思って。なんにも持ってきてないよね?」
「あ、ああ……。わかりました、僕が持ってきたらいいんですね?」
「うんうん、おねがーいっ」
 振り向くな、絶対に振り向くなよと我が身に言い聞かせながら、そろそろと背中をガラスから離す。そしてどうにも覚束ない足取りで脱衣所を出て、後ろ手に扉を閉めるなり大きく息をついた。今度はずれてもいない眼鏡をまた直し、すうはあと数度深呼吸する。
 ちゃんと洗い終わるまで番をする、という当初の目的を半ばで放り出してしまったことにふと思い至ったが、まさかここまできて逃げ出すということもないだろう。第一、そう、出たところで着替えもないのだから。
「……っ!」
 思わず妙な想像をしかけた自身を、叱咤して心を無にせよと念じる。今は着替えを取りに行く、それだけが任務だと胸の内で何度も繰り返した。再度深々と息を吸い、吐き出してよし、と気合いを入れる。
 目指すべきは場所は、彼女の部屋。

 

持っていくべき着替えには下着も含まれてるってことに彼が気づくのは、もうちょっと後のお話です。

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